前回は、日本と台湾の間の送金についての話だった。

今回は、この話を聞いて、往復書簡のような文章が始まるきっかけについて記していきたいと思う。

前回の話を読んだ読者は、様々なことを感じられたに違いない。海外での生活をしたことがある人は、そうだよね、あったあった、などと思い出してくれただろうし、海外での生活になじみのない人にとっては、そんなことがあるのか、と新たな発見があったに違いない。

は後者であった。日本の国境、言い換えれば日本国法の枠組みを越えるためには、文字通り越えるための手続きがそれ相応に必要である。法治国家なのだから当然であるし、海外へ渡航するにあたり、それは具体的に経験してきたことであった。海外便に搭乗する際のイミグレの手続き、パスポートの作成から忘れがちな更新に至るまで。それは「すでに」やっていたことであったのに、この話を通じて、改めて気付かされたのだった。国際法や外為法のもとで海外渡航をしているのだけれど、海外になじみのない人は、そのようなことを気にせずに生活しているのだ。これもまた当然といえば当然だ。法律などの社会の基礎や基盤ばかり気にしていたら、生活なんてできたものではない。

とはいえ、僕たちはこの話をきっかけとして、より抽象的な観点から物事を考えてみたい。 

まずお金の話をしよう。円だろうが、台湾元だろうが、カネはカネである。一定の購買力を持っている。円で牛丼を買えるし、台湾元で魯肉飯を買える。もちろん、台湾元で牛丼を買えるし、円で魯肉飯を買うこともできるだろう。これこそがお金の性質を如実に表している[*1]

しかし、実際には、人々は為替レートに一喜一憂する。為替レートは日々変動しており、その要因は複雑で容易に予測することはできない[*2]。前回の話でも具体的な数値が上がっていたが、直近の日本円を巡る状況は、海外との現物・通貨取引を行う者にとっては、大きな機会でもあるし脅威でもあるはずだ。

[*1] お金(貨幣)の機能については、拙著「お金の哲学」で簡潔に説明した。必要に応じて参照されたい。
[*2] 為替レートの理論的背景には、購買力平価説やビッグマック仮説などがある。

なぜ人々は一喜一憂するのか。一定の購買力を持っているにも関わらず、国境や経済圏を越えると途端に使えなくなるケースがあるからだ。至って当たり前のことを書いている。僕たちは海外渡航したとき、多くの場合、日本円を行き先の現地通貨に両替しなければならない。僕たちが国境を越える、お金も国境を越える。だが、そのお金は多くの場合、そのままでは使うことができない。前回の話で言えば、台湾にお金(銀行口座の中の預金残高)を置いてきてしまった、本人は台湾から日本へ国境を越えた、お金は確かに所有しているのだが国境を越えることができなかった。しかも、この「使えなくなる」は全く使えなくなる、という場合もそうだが、部分的に使えなくなることもある。まさしく為替レートが下がってしまって、相対的に購買力が低下する場合である。100万円だったのに気づいたら50万円しかない、といったような。

[*3]厳密に言えば、前者はexchangeの問題、後者はtransferの問題である。ex-とtrans-の違いは長くなるので、ここでは触れずに置こう。



ここで不思議なことが浮かび上がる。一定の購買力[*4]を持つ貨幣を所有しているのに、それを使うことができず購買力が行使できない場面がある。これは一体どういうことなのだろうか。同じ世界に住んでいて、ただ国境や経済圏を越えることで、購買力はどこかに行ってしまう。いや、どこかに行ってしまいはしないのだけど、静かに眠ってしまうのである。繰り返しになるが「当たり前」のこととはいえ、よくよく考えるととても不思議である。もちろん著者は腐っても経済学部を卒業していて、経済についての知識は一般常識レベルはあるものと自負している。だから、そういうルールになっているのだ、ということは重々承知している。けれども、何かこのシステムはおかしいような気がする。いや、隠された前提があると言ったほうがいいかもしれない。

[*4]この購買力は、価値、という言葉に置き換えても良いだろう。ここでは経済的な価値、という意味である。



さて、ここで少し話を変えよう。前回の話の中で「資金洗浄(マネーロンダリング)」について少し触れられていた。本人の認証、しかも、銀行の担当者の目の前に本人がいてその実在を確認できなければ、国際送金の手続きができない、という箇所だ。資金洗浄についての問題点やその防止策の詳細は他に譲るが、不正な資金国境越えることで、不正利用されたというアイデンティティを消去する、もしくは追跡できないようにするためである。これは、本人が銀行の窓口に行き、自らをアイデンティファイ(identify、認証)する行為とも関連している。銀行の話は一つの例であるが、アイデンティファイすることで、僕たちは安心して使用することがある。なぜだろうか。

それは、カネやヒトはそもそも、多重の面があるからであろう。多重人格とか、交換可能とか、変幻自在と言ってもいいだろうか。つまり、容易に成りすましや代理が可能なのである。だからこそアイデンティファイが必要なのだ。それは、本人であると同定する、同一することである。多面的な性質を一つに定める。そういう手続きである。

例えば、銀行の認証に、氏名や住所は必要になるだろうが、誰かの親である、とか誰かの子であるといった側面は多くの場合、考慮されないだろう。もしくは、阿波踊りサークルに参加していたり、個展を開いたり、プロゲーマーと競い合っているような側面は不要である。そういった面ではなく、銀行取引に必要な面を表立って「一つ」に定めるのである。実は為替両替(exchange)や国際送金(transfer)の際には、この「一つ」に定めるということで、便宜を図っている。国境をまたがなくても同様である。ハンバーガーを買う、タクシーに乗る、その時に料金を払う、そういう場面でいちいち僕たちは一つに定めるアイデンティファイの行為を行っている。けれども、実はその裏には複数の、多数の面が大いに存在する[*5]。それはある種のズレともいえる。

一つだと思っている物事に「多」や「複数」があること、そのズレを感じとったとき、人々は不安になる。

[*5] 映画「インファナル・アフェア」は、主人公の一人が刑事がマフィアになりすまし、また他方の主人公はマフィアが刑事になりすますという話である。この映画には続編もあるが、二人の主人公は終始、このズレの不安に苛まれる事になる。さらには過度な同一化によって更なる不安が生じている。

 

 

 

不安になるとどうなるのだろうか。ズレをなくすことで安心を得たいと思うのではないか。紙と紙の端を揃えるように照合し、一致させる。だが、ズレを無くそうとすればするほど、その度に摩擦は生じるものだ。先のアイデンティファイの行為はその一つだろう。銀行窓口の例で言えば、書面と本人存在とのズレが生じており、本人が書類の記載内容に同一化されていないと不安になる。そのズレをなくすために、わざわざ台湾の銀行窓口まで本人が足を運び、そのズレをなくすような手続きを要求されるのだ。本人確認、所在証明など。またその過程では、国境を越えるための移動、その準備と手続きで摩擦が生じている。さらには、その際の心理的摩擦も生じていることが見てとれるだろう。

「送金元の台湾の銀行で必要な書類を確認する。銀行のカード、通帳、パスポート、そして、古い居留証と新しい居留証。3年ぶりのフライトの前に何度も持ち物を確認した」

人々はある種の不安を解消するために、ズレを無くそうとし、結果、摩擦を生じさせる。

 

さて何の話からはじまったのだろう。長くなってきたので、今回はそろそろ締めなければならない。人々は物事の多面的な性質やズレに不安をおぼえる。だからこそ、あえて摩擦を起こすことで安心を手に入れる。言い換えれば、社会的な基礎基盤は、その不安を覆い隠すように、僕たちを包んでいるともいえるだろう。僕たちはその不安に気づかないこともある。この手続きは当然だ、同一化されることは当然だ、不安など何も覚えていない、などと。まるで、プラスチックの下じきと下じきを擦り合わせ、静電気が生じて、その2枚の下敷きが離れず一枚の下じきになってしまったかのように。

不安を覚えることも、それをどうにかしようとすることも、悪いことだと言いたいわけでは決してない。不安があるからこそ、人々は会話をしたり、為替取引をしたり、海外渡航をしたり、本人確認をしたりするのだ。この往復書簡めいた文章もそうやって始まった。そして、これからも続いていくのだろう。なぜなら、日本と台湾を往復する、人と人が会話をすることでズレは生まれ続けるのだから。

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