小説バトン 第四走者
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また、始まった…。宴も酣になると、酔っぱらった父や叔父たちが、郷愁の念に駆られて方言を話し出す。何言ってるか分からないから、そろそろ帰ろう。
親戚の絆を大事にするのは良いことだと思うんだけど、「俺はお前の爺さんに世話になったから、親父さんとは兄弟同然だ」とか言い出すおじさんもいて、血縁関係があるのかないのか、よく分からない人まで集まってる。
10人掛けの中華テーブル2つがギリギリ入る個室で、久しぶりに顔を合わせたからだろうか、みんな声がでかい。テーブルの真ん中にはコースの締めのスープがまだ半分くらい残ったまま、店員がデザートのフルーツを運ぼうかと部屋の様子をうかがっていた。
父のお気に入りの台湾料理のお店だけど、脂っこいわりには塩っ気がなくて口に合わないし、コースの締めがスープというのが本場らしいが、相変わらず馴染めない。緊急事態宣言が明けたからと母に半ば強制的に参加させられた親戚の集まりで、もともと乗り気ではなかった。一通り挨拶したから、もう出ても良いだろう。紹興酒で酔いが回った父と叔父たちは、高粱酒に手を出そうとしていて、付き合う気には到底なれないので、軽く会釈して席を立った。
「俺、そろそろ帰るわ。」
「なんだ、まだ食事が終わってないじゃないか。」
「だって、台湾語、分からないんだもん。父さんたちで楽しんでよ。」
「それは宏彰が覚えようとしなかったからだろ。」
昔から何遍も言われたそのセリフに反応するのも疲れるので、表情も作らずに店を出た。
リーホー、パイセー、ワカリコン、台湾語の単語はこれくらいしか分からないし、北京語は話せるけど読み書きは怪しい。どう考えても自分の母国語は日本語だと思ってる。台湾人の父と母は、留学先の日本で出会って恋に落ち、結婚後もそのまま日本に住み続けたのだが、その子供として生まれた自分は、日本の学校に行き日本人のように育った。両親の熱心な教育の甲斐もあって、北京語はなんとか話せるようにはなったものの、台湾語までは覚える気にはなれなかった。
台湾は福建省からの移民が多かったから、台湾語は福建の方言に似てるらしい。標準語の北京語とは全く発音が異なるので、新しい言語を覚えるくらいの意気込みがないと話せるようにはならないだろう。台湾育ちの台湾人にとっても北京語が主流になってしまい、若い世代で台湾語を話せる人が減ってきていると聞いたことがある。台湾語は、もともと文字を持たずに口頭で継承されてきたので、このまま話せる人が減っていくと何十年後かには消滅してしまう言語だそうだ。なんだか寂しい気がするけど、だったら話せなくてもいいかなと、社会に出る年齢になってしまった。
台湾で育った両親や叔父にとっては、学校で習う標準語が北京語で、家で話す言葉が台湾語だったから、日本にいる親戚や同胞が集まると、故郷を懐かしんで台湾語を話したくなるんだそうだ。気持ちは分かるが、自分には関係のない世界のようで、実感が沸かなかった。
昼間は季節外れの暖かさだったけど、夜は11月の気温に戻っていて、店から駅までが遠く感じた。東京タワーを目印に、駅まで急ぐ人の波に乗って地下鉄に乗り込むと、金曜の9時前だというのに、酔っぱらいで思いのほか車内が混雑している。コロナ前のノリに戻り切れていないのか、それともこれがニューノーマルということなのか、みんな早めに切り上げるのだろう。
子供のころから夏休みと年末年始は両親に連れられて台北に帰省していて、台湾が日本だった頃に育った祖母は日本語が流暢だったので、会話に困ったことはなかった。その祖母にも何年も会えていない。せめて社会人になった自分を見せてあげたいと思うのだけれど、コロナのせいで海外がこれまで以上に遠くなってしまった。
そんなことを考えているうちに最寄り駅に到着して、いつもの商店街を歩くと、どのお店も明かりが灯っている。足早に通り過ぎようと思っていたのに、一軒ずつ遠巻きに、中の様子を覗き見したくなる。外まで聞こえてくる酔っぱらいの声も、コロナの前ほど嫌な気持ちにはならなかった。別に馴染みの店があるわけではないのだけれど、きっとコロナの前に戻ることは良いことなんだろうなと納得させられてしまう。
次の角を曲がればマンションまですぐというところ、手前の小料理屋の前で足を止め、暖簾越しに中を覗くと、店構えのわりにと言っては失礼だけど、綺麗なカウンターでお客が何人か寛いでいる。台湾料理の後味が悪かったのか、背伸びして大人ぶってみたかったのか、思い切って引き戸を開けると、「いらっしゃい」と上品な声で女将さんが迎えてくれた。
第五走者へ続く