虫だったらよかったのに、と思うことがある。

虫にはたくさんの種類があるが、その外形の違いからすぐに、これはカマキリだ、とか、こっちはカブトムシだ、とかを判別できる。カマキリができることとカブトムシができることは違い、みんな自分ができることをやって生きている。カマキリはカブトムシのように生きようとは思わないだろう、その逆も然りだ。

他方で、人間はだいたい同じ形をしている。人間として生きていると、人間の中でもそれぞれがだいぶ違うことに気づくけれど、それが虫ほど外形にはっきり現れない。だから、カマキリ的な人間が、カブトムシ的な人間の群れの中で生きていることもあるし、その逆もある。ひとが「無理をしている」というのは、そういうときのことだと思う。ほんとうはカマキリのはずなのに、自分をカブトムシだと思い込んでいて、そしてうまく周りのカブトムシと相性が合わなくて、思い悩んだりする。

もし人間も、その違いがそのまま外形に現れていたら、どんなに生きやすいことだろう、と思う。自分は何者なのか、どんな仕事に就くべきなのか、とかほとんど悩まずに、与えられた本性を受け入れつつ、それに適った生活様式の中で生きていけるように思える。

進路相談とか、キャリア相談とか、大きく所属や職業形態の選択に悩んでいる人に会うと、そう思うことがある。あぁ、虫だったらよかったのになぁ、と。

話は変わるが(後で虫の話に戻ってくるが)、ぼくは昔から、ひとに「考え過ぎだ」と言われることがあった。「考え過ぎるな」と言われることがあった。あるいは、ぼくの友人が「考え過ぎだって言われたんだ」と思い悩んでいたりすることがあった。

ぼくはそういうとき、なんだかそれが「駄目」な状態と言われているような気がしてくる。考え「過ぎ」ているつもりはまったくなくて、ただ考えているだけなのに、そのひとから見たら「過ぎ」ているらしい。「過ぎる」と言うことは、そのとき何らかの「限度」があることが前提となっている。

昔、美容院で髪をブリーチしてもらっていたときに、「液が頭皮に染みるので痛かったら、すぐに言ってください」と言われたことがあった。結局なにも言わずに、ブリーチが終わったが、美容師さんは、ぼくの頭皮が火傷しまくっていて、あたふたしていた。「えぇ、言ってくださいよ」と言われたが、ぼくは「どのぐらい」の痛さが言うべき痛さなのか、がわからなかった。染みるのが当然なら、少しぐらいは痛いのが当然だろう、と思っていたし、言うほどではない痛みで毎度言っていたら、ブリーチが実現しない、と思っていた。「この痛さは言うべきなのだろうか、言うべき限度に達しているのだろうか」と考えていた。結局、どうやら美容師さん曰く、ぼくはその間、言うべき限度を超えていた。

ところで、美容師さんというのは、その道のプロである。限度を超えずに、髪をブリーチすることもできるのだろう。だから、ぼくは美容師さんともっとコミュニケーションを取りながら、その限度を知ると、火傷なく、よりよくブリーチしてもらえるようになるだろう。

じゃあ、なんだ。ぼくに「考え過ぎ」と言ってくる人、ぼくの友人に「考え過ぎだって言われたんだ」と悩ませてくる人は、思考することのプロなのだろうか。多様な思考の仕方があるのに、それでも普遍的な「思考」とは何か、の答えを十全に理解している、というのだろうか。そうした思考することのプロを哲学者とか賢者とか言うならば、じゃあ、その人は哲学者とか賢者なのだろうか。何で、ぼくやぼくの友人にそんなことを言い切れるのだろうか。あるいはそう、ぼくらを「限度」を「過ぎ」ていると制して、そうすれば、ぼくらが自分で自分の思考を制することができるようになると言うのだろうか。というか、そもそも、自分の意志で「思考すること」を制することができるほど、ぼくらは自分の「意志」で積極的に思考していたのだろうか。

20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、主著『差異と反復』の中で、自らの思考論を展開している。そこで彼は、思考する意志、積極的意志をもって思考する、という通俗的なイメージを批判した。ひとは、思考しようと思って思考しているわけではない、し、そもそも滅多に思考することはない、と言い切った。

ドゥルーズにとって「真の思考」とは、ある種の暴力によって強制されて開始されるものである。私たちは、思考を強制する何かと偶然に出会い、これは何だ、なんでこうなるんだ、とかいう仕方で思考を開始する。そこに思考の積極的意志はない。そして、どこに行き着くかもわからないままに思考が開始され、未知の知的経験に至る、そういった過程こそが「学習」である、とドゥルーズは言う。

さて、最初の話に戻ってこよう。おそらく私たち人間には、虫のように多様な種類がある。しかし虫のように、外形にはその違いが現れてこない。だから、カマキリなのに、カブトムシの群れの中で生きようとしてしまうようなことがある。その環境は、カマキリにとって、大いに思考を強制される場所になるだろう。他の人たち、この場合、他のカブトムシたちは、ほとんど自分たちの環境を疑問に思わない、つまり、真に思考をすることなく、生きることができる。しかし、そうしたカブトムシたちの生活様式、生のスタイルは、カマキリであるこちら側にとっては、不思議で仕方がない。例えば、こうした生き方は幸福なのだろうか、この仕事のやり方はほんとうにいいのだろうか、と思考が強制される。そしてそんなことを自然と考えているだけなのに、その考えていることを話すと、これまたカブトムシたちには「考え過ぎだ」と言われる。

だからこうも思う。「考え過ぎ」という言葉は、そうしたカブトムシたちが自分たち自身は疑問に思わない前提、生き方、働き方、結局のところ、存在の仕方が問われ始めるところで、一緒に問おうとしてくる語りをおこなうカマキリに発せられる抑圧の言語である。

こちらは考え「過ぎ」ているつもりは毛頭なく、思考を強制されて、考えているだけである。そのとき問題となっているのは自分が生きているところの状況そのものであり、答えは自分の生き方そのものとして提示するしかなく、その動きはその人の生そのものである。「考え過ぎ」という思考の抑圧は、新たな生き方の現れをそれが出現する手前で殺すことであり、もっと言えば、その先で現れる新たな生のスタイルを見て、そうやって生きてもいいんだ、と救われる人々もろとも殺すことである。

生の殺害はいとも簡単に行われる。誰かれ構わず、「考え過ぎだ」と言ってやればいいのである。

哲学者ハンナ・アーレントによれば、ホロコーストの大量虐殺を可能にしていたのは、階層的な組織体の中で、「上から言われたことだけをしただけ」と、命令されたことに疑問を持つことなく、無思考のままにやってのけてしまう人間たちのあり方であり、彼女はそうした事象を「悪の凡庸さ」と名付けた。これを引き延ばすと、私たちは直接手を下さずとも、そしてその殺害過程のプロセスに明確に位置づかなくとも、「考え過ぎだ」と言うことで、容易く、生の殺害に参加してしまうとも言えるだろう。

思考することへと私たちを強制する欲望の発生を抑えることはできない。カマキリとしてのぼくらは、カブトムシとしての者たちの中で、外見上は「過ぎている」仕方で、思考の疾風にさらわれる。まずもっての問題は、その疾風を背にして、カブトムシの世界を問い質すこと、あるいは否定すること、ではなく、カブトムシの世界を探検し、そこに潜む風穴を見出し、通り抜けて、互いの差異を肯定しつつも、自らの生を肯定する軌道を辿ることである。か細くて、揺れていて、チラつくような、しかしそれでも確実なそうした微光の糸を手繰ること。