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「こんなばかみたいな量の山椒の実、どうしろっていうのかしら。」

 

開店準備も一段落した私、神田明子(かんだあきこ)は、店のカウンターに座り、一心不乱に山椒の実に付いた枝を外している。この時期になると、実家から大量の実山椒が送られてくるので、それをシラスと一緒に炊いて常連さんに配るのが、ここ数年の恒例になっていた。

 

「あと少しだけザラメをきかせると、ごはんがすすむし、長持ちもするのよ。」

 

実家でちりめん山椒を作るとき、味見をした祖母がきまってこう言い、最後にザラメをひとつかみ加えるのだが、母と私は、いつもこれが余計だと思っていた。加えた分だけ野暮ったくなる。それはそれでおいしいのだけれど、やっぱり私にはまだその野暮ったさが許せなくて、自分で作るときには、できるだけすっきりとなるように、ザラメの量には特に用心するのだ。

 

「よく考えてみたら、わたしとおばあちゃんじゃ、甘さの功罪についてはとても分かり合えっこないわね。」

 

独り言をぽとりと床に落としながら、しっかりと自分好みに炊き上がったちりめん山椒の粗熱を取るため、カウンター上のふきんにそれを広げた。祖母と母の決して良くはない関係を思い出し、鳩尾(みぞおち)のあたりが少しざわっとしたので、手桶に水を張り、店の外に出た。二十四節気では、ちょうど芒種(ぼうしゅ)と夏至の間、外はまだ陽が残り、夕方を過ぎても昼間の熱がもったりと地面にこもっている。

 

ぼおっと打ち水をしていると、さっきまで浅く早かった呼吸が落ち着き、道行く人の他愛のない会話が少しずつ耳に戻ってきた。私にとっての打ち水は、この世界と仲直りするためのある種の儀式なのだ。

 

店先で打ち水を終えて店に戻ろうとすると、開店当初からの常連である丹後京助が路地の入口から声をかけてきた。丹後はすぐ近くで長いこと続いている床屋の店主だ。

 

「おはよう、明ちゃん。打ち水だなんて、有難いねえ。」

 

「あら、丹後さん、おはよう。打ち水を有難いだなんて、この間なんて、女子高生に舌打ちされちゃったわよ。それにしても近頃暑くなって、なんだか、いよいよ夏って空気よね。今日は、寄っていかれるのかしら。」

 

「何やら季節のいい香りがするし、少しだけお邪魔するかな。」

 

店の中は、実山椒の爽やかさ、シラスと白醤油、ザラメの香ばしい香りに包まれて、さっきまであった鳩尾のざわつきはすっかり消えていた。

 

「ご覧の通りよ。今年ももらってくださるかしら。」

 

「あー、なんていい香りだろう。今日はなんだかツイてる日だな。さっきは、最後の一籠だった水羊羹を買えたし。御礼といっちゃなんだけど、これ食べるかい。ここのは、固すぎず、黒すぎず、最高なんだ。」

 

そう言いながら丹後さんは、銀色の紐で留められた水羊羹の包み紙を嬉しそうに解いて、二切れそれぞれの小皿によそって、大きな方を私に差し出した。

 

「ちりめん山椒にしたって水羊羹にしたって、お料理って、その土地と季節の残影なのよね。それを頂くことで、今いるその世界とわたしが一つになれる。丹後さんがいつだったかお話ししてくれた、海鼠(なまこ)の棒子になりたいって話も、わたしにはとても共感できたわ。」

 

丹後さんの食べ物の最上級の誉め言葉は、そのもの自体になりたいということらしかった。海鼠の棒子なんて、私はそれまで聞いたことも見たこともなかったし、この先も私の世界には存在しない類の食べ物かもしれない。ましてやそれになりたいだなんて、まったくもって共感できる部分が少なさそうな話なのだが、美味しいそのもの自体になりたい、というその可笑しな感覚だけは、その時、不思議にしっくりと受け止められたことを思い出した。

 

「あー、あれは本当にうまかった。知らない食材や料理と出会って、自分の腹に落とすことで、ぼくたちはこの世界を、まさに身をもって理解するんだよな。いっそのこと、海鼠になっちゃえば、僕はもっとその素晴らしさを知れるのかもって思ってるのかな。」

 

「新しいことを知ることはとても素晴らしいことだけれど、だからといって、あれこれ忙しくして快楽を求めるための食事に傾倒するのもそれは違うわよね。普段は、糠漬けとお味噌汁、それに、炙った目刺しなんかあったら最高ね。一見質素であっても、その土地と季節に自分の身体を開いて、丁寧に食べるってことを少し意識するだけで、わたしたちは多くのことを学べるし、世界に感謝する機会を作れる。いまどきこんなこと言うと、なんだか大袈裟で、みんなには笑われちゃうわね。」

 

丹後さんの水羊羹の差し入れによって、期せずして進んだ私自身の食べることについての理解に、一人ニヤリとしながら、私は暖簾を表にあげた。

 

 

-第三走者へ続く-