20187月、私は沖縄にいた。その日は前職に在籍した最終日の翌日、つまり独立初日であり、メタへの参加初日でもある日に私は沖縄にいた。仕事というわけではない、遊びというわけでもない。メタのメンバーに「フィールドワークをしよう。」と声を掛けられ沖縄に行った。

 

平日は仕事で働くのが当たり前、という意識に長らく浸り、ひたすら働くことで自分を満たそうとしてきたが、独立初日からいきなり仕事に追われるわけでもない。自分は本当に稼ぐことができるのか、そんな不安を抱いていた。この不安にとって、フィールドワークはどんな意義があるのだろうか。私はこの予定を家族にどうやって説明していいか分からなかった。

 

もともと勝手に時期を区切り、それを重んじる性分であるが、この記念すべき初日、なぜだか武者震いがして午前3時に目が覚めた。昼頃、那覇に着き、メタのメンバーとともに沖縄そばを食べ、昼から瀬長島にあるカフェでアイスコーヒーを飲み、温泉につかった。その後、夕飯を食べ、泡盛を飲み、深夜にまたアイスコーヒーを飲んだ。武者震いがして目が覚めた記念すべき初日に、このような過ごし方があっていいものだろうか。不安になりそわそわした。

 

2日目、「どこに行きたい?何がしたい?何が食べたい?」と聞かれ、ことごとく何も案がない自分がつまらないと思った。メタのメンバーの案で北谷に行った。カフェでノートPCを開くもメールボックスは静寂に包まれ、特にやることはない。雨の中、小さな観覧車に乗り、サウナと化したゴンドラの中の暑さに笑いと汗が止まらなかった。

 

その日の夜、ホテルの部屋に集まり、2日間を振り返って感じたこと、思うことを紙に書き、共有し合った。私はこのフィールドワークを通じて、メタという場に参加したいと思ったわけがにじみ出てきたので、それをそのまま話した。

 



自分がそれまでにいた世界とは別の世界の存在は感じつつも、見ようとしてこなかった。この世界のまま、この中で貫いていくことでいいと思っていた。ただ、メタのメンバーと沖縄で過ごす中で、彼らは“私が引いた境界線”の向こう側にいると感じ、この境界線を越えたい、何なら自分が引いた境界線を取り払いたいと思った。また、メタという場は境界線を境界線とせずあり、それがこの場に参加したいと思ったわけなのだと感じた。

 

もし、このフィールドワークに行かなかったら、上記のような感じ方を自覚し、言葉にすることはできなかったように思う。メタのメンバーからも「リフレーミングしたいと思ったってことだね」という言葉をもらった。

 

大半の時間は降っていた雨、高い湿度、アイスコーヒー、温泉、泡盛、ダム、大量の汗、そしてにじみ出てきた感覚、フィールドワーク中に境界線を境界線とせずある水のメタファーを多く感じたことが影響したのかもしれない。メタのメンバーとそんな会話をした。ちなみに私は小学校4年生のとき、将来なりたいものを書く作文で“水”と書いた。

 



独立初日に沖縄でフィールドワークをするという時点で、私は境界線をまたいでいた。働いて稼ぐということに対する意義を考えたり、行っている最中もそわそわして不安になっていた。それまでの自分一人では選択しなかった行動だった。それ以降も同じような感覚があったときに、私は<いたみ>と表現している。

 

「いたみ」は、痛み、傷みと書く。痛みとは、肉体的な苦しみ、精神的な悩みや悲しみであり、傷みとは、ものの損傷や破損、食物では腐敗などの意味がある。どちらにしてもネガティブな意味で使われる言葉である。私が表現する<いたみ>という言葉、またそれを抱いている状態はネガティブでもポジティブでもない。そんな<いたみ>は私の中で大切にしている感覚であり、ここに書いてみたいと思った。

 

私はどちらかというと安定とか継続が好きな人間だと思う。慣性が心地よい、反復する単純作業も嫌いではない、走り慣れた道が好きだし、気に入った曲はよくエンドレスで連続再生する。

 

同じような環境で同じ行動を繰り返すことは、太い境界線を作り出し、その中でぐるぐると慣性を生みながら回る。1回目より2回目にうまく回ることができると、これが経験則かとも思え、満足したりする。どこかで新しいことには触れなくてすむようにしたい、考えなくてもすむようにしたい、変えたくない、そう思っているのかもしれない。

 

「〇〇っぽい」という言い方がある。この中には「〇〇っぽさ」という軸があり、その中で競い合ったり、称え合ったり、傷をなめ合ったりすることの心地よさがある。「〇〇っぽく」あれば、それで十分ではないかとも思えたりする。

 

しかし、ここでわがままな自分がいる。「〇〇っぽくなさ」にどうしても強く惹かれるのである。1つの世界にいつづけ、何度もそこを回っていると、いつかはさみしくなるんじゃないか、飽きてくるんじゃないか、実は自分の知らない豊かさが別にあるんじゃないか、とわがままで不安な心が発動する。

 

この「〇〇っぽさ」と「〇〇っぽくなさ」の間にも境界線があり、これをまたぐときに、「〇〇っぽくなさ」に不慣れであったり、恥ずかしさがあったりする。また、境界線をまたぐことにどこまでの意義や価値があるのだろうかと考え、ためらいが生じる。これも私は<いたみ>と表現している。

 

なにかやったことがないことをやってみよう、どこか行ったことがないところへ行ってみよう、そんなときまた私に<いたみ>が生じる。便秘にもなる。

 

武者震いが、勇気と不安が等価に存在しつつも、勇気に意識を注いだ状態だとしたときに、あの日の午前3時は、<いたみ>により不安への意識も多く注がれる状態だったため、武者震いを超えていたかもしれない。ただ、今までを振り返ってみると、<いたみ>があってこその偶然的で、無自覚なことを自覚したり、つながるはずのないことがつながったりと面白いことが起き、より豊かに歩んでこれた気がする。だから私はまたその<いたみ>にとりさらわれてみる。