「キレイな色の花でしょ。庭で取れたんだよ。何色の花が一番好き?」

「赤かな」

小学校六年の甥っ子がおばあちゃんと話していた。



「もの自体に色がついているわけじゃないんだよ」

すかさず私は横槍を入れてしまった。

「また始まった。。」

とおばあちゃん(私にとっては母)はそそくさと退散して洗い物を始めた。

 

「光がないと色はわからないでしょ」

と私自身もよくわかっていないことがバレないよう、経験からわかる事実だけを言ってみた。

すると甥っ子は、頭を抱えて、

 

「あれ、なんかすごく怖くなってきちゃった」

と言った。

 

予想外の反応に、私はなんで怖いのかがわからず、理由を聞いてみると、

「今まで僕がみてきたものって、みんなと違うのかもしれない」

と。

 

適当に放った言葉から、そこまで想像が広がることに、叔母という病(甥っ子や姪っ子が可愛くて仕方なく、メロメロになっている状態を表す。)に侵された私は怖がっている甥っ子を前に感動した。



後日、この甥っ子がその父親に

「僕の見ているりんごの赤さとパパの見ているりんごの赤さは違うかもしれない」

と言ったそうで、これは一体どうしたものか、と思ったそうだ。

 

そして、この一連の話をその甥っ子の母親にしたところ、

「そういえば私は小さい頃、私が見てる世界が他の人の見てる世界と違うのかもしれないと思って、怖くなった」

と言ったのだった。



辞書によると怖いとは、以下のように書かれていた。


こわ・い【怖い・恐い】(こはい)

1 強い相手や危害を加えられそうなもの、正体のわからないもの危険な場所などに対して、身をしりぞけたくなる感じである。身に危険が感じられて不気味である。おそろしい。

2 思いもよらない不思議な力がある。おそろしい。


この説明に当てはめるなら、甥っ子の"怖い"は「正体のわからないもの」に対する不気味さ、といったところか。でも、「正体のわからないもの」という対象が「怖さの素」ではないような気がする。

他の人が見ているものと自分が見ているものが実は同じでなかった、異なっていた、ということ。

今まで同じところにいる、同じものを見ていると思っていたのに、気づいたら一人だった。

みんなは同じものを見ているかもしれないのに、一人だけ違うものを見ていたのかもしれない。

この甥っ子の"怖い"は、何か怖い対象があるのではなく、たった一人で見ている"自分"という孤独な主観に気づいてしまったことなのだろう。ちょっと意地悪いおばさんのせいで、自分のペースより少しだけ早くそれに気付かされてしまったのかもしれないけれど。

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深夜、寝静まった住宅街で、自分が地球で最後の一人の人間になったつもりで、甥っ子の赤いりんごの話を思い出す。