回れ右の逡巡
ペーパードライバー暦20年の私は、今乗らないともう一生乗れないだろうと、重すぎる腰をあげて、車を買い、そしてペーパードライバー講習へ通った。車線変更、車庫入れ、諸々、同時に考えなければならない事項が多すぎて頭が真っ白になった。バックをするとき、ハンドルを右に回すと車はどっちに動くのか、頭で考えると身体が動かなくなる。しばらく運転を練習して、幾許かはマシになった。しかし、何よりも決定的な問題が浮上してきた。私はどうやら、左右の認識が苦手なのである。
家人に頼まれて車でスーパーへと行った。駐車場の入口から入り駐車完了。そこまではよかった。買い物が済み、さあ帰ろうと、駐車場出口を探した。そこの駐車場は入口と出口が異なる場所にあった。そこから苦難の始まりだった。誘導の矢印に従ってグルグル進むと駐車場出口に辿りついた。しかしグルグル回りすぎた。帰宅するのに右に出るのか左に出るのか全くわからなくなってしまった。隣に乗っていた家人はあっけに取られていた。何でわからないのかがわからない、と言った。どっちでもいいからとりあえず曲がったらいいのに、とも言われた。間違ったらまたどこかで曲がればいいのよ、とも。
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昔もこんなことがあった。
幼稚園の頃、幼稚園の建物から向かいのホールに行くのに横断歩道を渡る必要があった。その際、先生が「道路を横断する時には右手をあげましょう」と言い、「右手はお箸を持つ方ですね」とよくある説明をした。
我が家は5人家族、そのうち2人が左利きだったので、幼稚園児の私にしたら、人によってお箸をもつ手は右だったり左だったりした。さらに状況を悪くしたのは、先生が対面している状況下で幼稚園児がわかりやすいようにと、鏡として振る舞ったのだ。つまり、幼稚園児からみて「右手をはこっちですよ」と言って先生がこちらを見ながら左手をあげたのだった。
道路を渡る前に「じゃあ、みんなさっき練習した通り右手をあげましょう」と先生が言ったが、私は周りをキョロキョロ見渡し、どっちの手を上げるべきか考え込んだ。適当にどちらかをあげればいいものの、慎重すぎる性格がわざわいした。こっちなのか、いやでもこっちの可能性も捨て切れない、と。この時点で追い詰められた幼稚園児の私は心拍数が上がりすぎていて、もはや冷静な判断などできなかっただろう。
幼稚園児の私はこの2段階のトラップにはまり、すっかり右手とは何かを見失ってしまった。右手とはみんなにとって右手なのか、人によって変わるのか、回転すると変わるのか、考慮すべき事項が多すぎて、幼稚園児の私には右手がどっちなのか完全にわからなくなってしまったのだった。
私のように左右がわからない幼稚園児が数人いて、その子らは先生によって右手のひらに油性マジックでマルと書かれるのが通例だった。私はこのメンバーの常連だった。そしてマークされてしまった自分の手のひらから一刻も早くそのマークを消したく、擦ってよだれやらで何とかそれを消そうとしていた。
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時は進み中学の体育の時間。
体育の授業の開始は始業のベルで整列する必要があった。整列は「前へならえ」、「休め」これは明確なのでいくら何でも私にもできた。しかし、ここでも問題はやってきた。「回れ右」[*]である。
[*]両足を揃(そろ)えて立ち、右足を後ろに引き、それを軸として百八十度回転する動作。(Oxford Languagesより)
この時、私以外の同級生は全員同じ方向に回転していた。先生は私をみて何であなたは正面を向いているのだ、という顔をしている。この中学の時の体育の先生は私にとって強烈に怖い存在で、せっかく受験して入ったのに、親に転校したいと泣きながら懇願するくらい怖い存在だった。(後日談として、同級生からあの先生は私のことを気に入ってかわいがっていた、ということだった。わからないものである。)怖いその先生が生徒達に命令をしているのだ。命令するくらいの人は自分が世界の中心と思っているのだろうから、発せられる回れ右は、先生から向かって回れ右、つまり私は左に回るのが正解なのではないか、という思考が働くのである。何でも統制したがるのに、指示を出すときだけ、生徒側の立場になるなんておかしい、というのが私の回れ右の逡巡だった。しかしそれを説明する勇気はなかった。さすがに幼稚園児からは幾分か成長していたので、みんなの回転方向をみて、あ、先生からみてじゃないのですね、と心の中でつぶやき、「すみません、もう1回お願いします」と言える社会性は身についていた。
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ここで左右の認識で躓いてしまうのは、単に、基準が明確にされていないことで、どちらとも捉えられる余地があるのに答えを選択しなければならないからである。先日、友人と国語の試験問題における選択肢を切れなかった、という話題になった。可能性を捨て切れないならどうして、そっちを捨てなくはならないのか。捨ててしまっていいのかという逡巡なのである。大変優秀な友人は蓋然性から考えるのだと言っていた。可能性が1%、99%なら99%の方を選べば良いと。しかし、私の場合1%の可能性があるならば、切れないのである。反証されてしまう可能性があるからだ。わずかでも確率が存在するなら、それは私にとっては数の大小の問題ではなくなってしまう。
車の運転で厄介なのは、車を進めなくてはならないこと。アクセルを踏まないと後ろからクラクションを鳴らされてしまう。容赦無く強制的に1%の可能性を無視して右折、左折する必要があるわけだ。1%の私を左折、99%の私を右折することはできない。さようなら1%の私、という気分で毎回毎回交差点に立ち向かうのだ。
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左右の認識については単純に誰が基準かを明確にすれば解消されるのに、それが省略されてしまうことが多いのだ。中学生の私のように、その人との力関係やら、考慮しなくても良いことまで考慮しあらゆる可能性を考えてしまう。左右の認識がそれを判断する手前の与えられた条件の可能性の問題だったことは私の中では、スッキリはしたが、だからと言って、右折か左折か家に帰るにはどっちかは、ナビなしには逡巡してしまうことに変わりはない。