私は、4期(2019-2022年度)に渡る監査役の任期を終え、更新なしに退いた。

「企業内哲学」の動向は、2011年から相次いだFAANGの哲学者雇用により、前景化した。この動向の一端が日本における私のところで実現したのが2019年である。株式会社メタによる佐々木晃也の監査役就任が生じた2010年代後半から2020年にかけては、国内でも哲学界とビジネス界の交流や「哲学」や「哲学対話」をサービスする企業や事業が立ち上がっていた(2017年の株式会社クロス・フィロソフィーズの設立や2020年のセオ商事による哲学事業「newQ」の開始)。現在も、この動向は拡大の一途を辿っているように見える(例えば昨年の、哲学研究者川瀬和也氏の『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』の出版や、哲学・教育学研究者の堀越耀介氏と電通との協働)。

 

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学者と場所

学者(ここでは哲学、広く人文学に関わる者として「学者」と呼ぶ)はたいてい大学にいる。学者が自らの活動をする場所としてそこが適しているからであろう。蔵書豊かな図書館があるとか、授業では学生に対して自分の専門分野についてのことを教えることを通して、新たな発見をできるからとか、そうしたいろいろなファクターによって、大学という場所は学者が活動する上で適しているものなのだろう。

大学というのはすごいビジネスモデルだと思う。毎年数百〜数千人の顧客が、年間数十万〜百万、あるいはそれ以上のお金を支払いにやってくる。顧客マーケットにおいて、大学入学の動機が「就職のため」が割合多いならば、大学はこぞって、就職率や「良い」とされる企業への内定人数を表にちらつかして、次年度の売上拡大を目指す。そうなると大学に雇われている学者たちは、大学が顧客にちらつかせた期待を裏切らないように、と「就職のため」に寄り添った授業をするよう強いる力を日々受けることとなる。それに反動して、「学問」を純粋に教えることを続ける学者もいれば、あるいは「就職のため」ではなく、就職しようがしまいが「生きていくため」に必要な知識として自分の専門について教えようとする学者もいるだろう。あるいはまた、ビジネス現場のように、成果を出せなければ給料を支払う意味がない、解雇だ、とはならないような、アカデミアの伝統的風土に甘んじて、大学を媒介として社会から強いられる力には無頓着な学者もいるかもしれないし、こういったことすべてに無自覚な者もいれば、あるいは無自覚ではあるが、結果的に社会に対する業績や知名度が高いばかりに、大学にとっては自らのブランドを維持・向上していく上で、雇われ続けている学者もいるのかもしれない。とにもかくにも、各大学は一概にこうであるとは言えないような力の場であり、学者というものはたいていそのうちにいる。

学者がたいてい大学にいるのは、自らの活動に制約が与えられることがあるとしても、他の場所よりそこにいる方が自らの活動に適している、あるいはその者がそう信じている限りにおいて、である。学者は、大学にいるから学者なのではない。大学にいることは学者であることの必要条件ではない。学者は、そこが自らの活動性を高める限りにおいて、大学という場所を利用し、大学もまたそれを顧客へのサービス提供のために利用するのである。ただそれだけのことである。学者にとってより適している場所が、大学以外にあるならば、別にそこに移ることに問題はない。問題があるとすれば、「ちゃんとした学者」に見られない、とかそういう懸念だろう。ここでの「ちゃんとした学者」というのは、学者は大学にいるから学者であるのではないのに、いつのまにか、大学にいるからその人は学者であるとみなしてしまっているような世間の常識的見解によるそれである。だから大学にいようがいまいが、その人が学者であることに変わりないとしても、その人は「ちゃんとした学者」とは見られない懸念を持つ。逆になんとしても「ちゃんとした学者」として見られたい学者は、大学という場所が自らの活動にとって適している場所でなくなっていったとしても、大学にいることに固執するだろう。探究心よりも名誉欲が勝るのである。あるいはもっと別の理由があるかもしれない。家族の生活費を養わないといけないとか、それなりに毎月固定給が入ってくるからとか、そういう理由、結局のところシンプルに資本経済圏での生活の安定のために、である。ところで、探究心が特権的に重要で、少しばかりの名誉欲や生活安定の希求などに流されていることは浅ましい、などとは私は思わない。それらは人間に業のように宿る諸欲望であり、いわばパラメータのように、多くの者がそれらのバランスのうちで自らを保つことに努めている。

だからまったく同様に、学者が企業にいることがあってもおかしなことではない。単に学者が自らの活動に適している場所として企業にいるだけである。ただそういった学者は、世間の常識的見解において「ちゃんとした学者」とは思われづらい、あるいは誤解されやすいということを当然に知っているのだろうから、そしてその自覚の上で企業にいるのだから、少しばかりそうした学者はその辺りの欲望が弱い、あるいはそう見られることについてあまり関心がない。逆にそうした欲望が強い学者、つまり「ちゃんとした学者」と見られたい学者は、企業にいることを嫌がったり抵抗感があったりして、意地でもそうしたオファーは断るかもしれない。まぁしかしただそれだけのことである。 

 

「企業内哲学」は可能的なものか

 哲学者の定義、例えば、それを「自由な思考者」と定義するとしよう。ところで、大原則として、何であれ人間の活動というものは、常に特定の場所でおこなわれるものである。しかるに「哲学する=自由に思考する」という活動もまた、その活動がおこなわれるところの特定の場所なしにはあり得ない。自分の家でもいいし、近所の喫茶店でもいいし、東北の山でもいいし、それこそ都内の大学でも海外の企業でも、どこでもいいのだが、そうした何らかの「場所」なしにその活動はあり得ない。それゆえ、一人の哲学者にとっての自由に思考することとその特定の場所に居続けることのあいだに両立不可能性があり、それが解消不能である、あるいはそうと信じられるならば、その者に残された選択肢は、自由に思考することを放棄するか、その場所の外に出るかのいずれかとなる。そしてもし企業一般に居続けることと自由に思考することとのあいだ両立不可能性が必然であるならば、「企業内哲学」は定義上、矛盾を含んだ概念であることとなる。要するに、企業内にいることと哲学することとは両立し得ないのだから、実際のところ「企業内哲学」と呼ばれているものは架空物に過ぎず、現実に存在することはあり得ないものとなる。

それゆえまた同様に「大学内哲学」という概念自体も疑い得ることとなる。歴史的に見れば、そもそも何人かの哲学者たち、例えば、ソクラテスやデカルト、ライプニッツ、スピノザなどは大学にいなかった。大学にいることは哲学することの必要条件ではない。これは自明であり、あるケースでは、大学にいることと哲学することは両立不可能でさえあった(スピノザは、教職につくことにより自分が「哲学することの自由をいかなる限界に制限せねばならないかを知らない」という理由で、オファーを断っている)。

したがって、一方では現行の制度上ないし慣習上、哲学することあるいは哲学に関する学者であることと大学にいることは不可分なもののように自明視されがちであり、他方では企業にいることは「ちゃんと」していないように思われがちだが、哲学と双方の場所との関係は根本的には同等である。単に「大学内哲学」と「企業内哲学」があるのであり、両者はいつだって空想上のものと解されかねないものであり、その逆も然りである。もし前者(「大学内哲学」)のみが、哲学する生の現実的な一様式である、とでも言うならば、大哲学者たちは大笑いするか、あるいは、そのようにして哲学することを自らに独占せんとするプロパガンダに対して徹底的な批判を展開することとなるだろう。

というわけで、何ら疑いなく言えることだが、企業内哲学は、大学内哲学と同様に、可能的なものである。それらの場所と哲学との関係は、単にそれらの諸条件間の組み合わせの問題である。一つの企業と一人の哲学する者の間に、両者の活動の諸条件についての両立不可能性がないならば、「企業内哲学」は具体化しうる。「すべての人間がその下に生まれ、またその大部分がその下で生きているところの自然の権利および編成は、誰もが欲望せずかつ誰もが為しえないことしか禁じてはいない」(スピノザ『国家論』chap.2 §8)。 

 

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私がこの4期の間でやってきたことは、具体的な事例なしに言えば、株式会社メタと私の間の、両者の活動の諸条件における、両立可能性を探索し続けることでしかなかった。両立可能であったことは必然的に具体化し、両立不可能であったことは具体化しなかった。その度に私は、哲学が企業に対してできることとできないことを少しずつ知った、あるいはその成果の原因についていまなお知ろうと努めている。ただそれだけである。それでもこの稀有な機会を得たこと、そして常に私のそうした努力を歓迎・歓待してくれたことについて、株式会社メタのみなへの感謝の念は計り知れない。

ところで一応述べておくと、私が此度、任期を終え、更新しなかったのは、何らネガティブな理由ではなく、私がこれまで就いていた席を、また別の新たな実験−実践に使おう、という点で我々が一致したからである。すでに次の監査役は任期を開始している。彼女については、彼女自身がLOGUEを書いてくれているので、そちらを見ていただければと思う。私の方は今後どうするのか、については、また報告・共有させてもらえればと思う。