前回まで

だいぶ間が空いてしまった。人類学と芸術表現のゼミ「Meta Højskole」の様子について、書いていくシリーズの第3回。

第1回第2回では、開講前夜のこと、すなわち、なぜMeta Højskoleが「人類学と芸術表現のゼミ」であるのか、また、そのコンセプトが「わたしの問い、わたしの表現」であるのか、ということを書いた。今回は、このゼミへのエントリー課題について書こうと思う。

ゼミへのエントリー課題

ゼミへのエントリー課題はこのようなものであった。シラバスから抜粋する。

Ⅰ.自分史をかく。

あなたが生まれたときから現在までの出来事や行動をふりかえり、「自分史」として表現してください。

Ⅱ.わたしの問いと活動計画。

・あなたがMeta Højskoleで探求したい ①わたしの問い、②なぜその問いを立てたのかその理由、③活動計画を教えてください。

・ ①は必ず疑問文の形式で表現してください。②は表現形式に制約はありません。③は現時点での粗い計画でも構いません。

上記のうち、今回は「Ⅰ. 自分史をかく。」ということについて書いていきたい。参加者の自分史の様子を淡々と(プライバシーを侵害しない範囲で)伝えてもいいかと思ったのだけれど、最近、ある文章を書く機会があり、その文章をもって「自分史をかく」ということを伝えたいと思う。

実は、自分史を含め、あらゆるものを「かく」=「記述する」というテーマは、僕にとって重要なことであると思っている。先月こちらに書いたように、1年以上前から、重要であるということを<既に知っていた>ということもあるし、それに明確に気がついたのは、文章を書いたことによる。以来、このテーマを掘れば掘るほど、昔から、僕の傍らにあるような気がしてならないのだ。

だから、あえて、今回は説明文としてではなく、一つの物語文として読んでいただけたらと思っている。改題『マトリョーシカの中心から』という一つの物語を。

『マトリョーシカの中心から』

ぼくは今、あるきっかけで「個人史を書く」という課題に応えるため、書くことを始めようとしている。

思い返すと、少し前にも、そんなことがあった。そのときは「個人史」ではなく、「自分史」であったのだけれど、それは些細な表現の違いでしかない。以前書いた「自分史」は、ぼくたちが主催するゼミMeta Højskoleのエントリー課題であった。主催者でありながら、ゼミ生として参加することを考えていたぼくは、主催者ではあるものの一ゼミ候補生として「自分史」を書くこととなったのだ。

「個人史」について書こうと思って、「自分史」を書いた時の「ぼく」を思い出す。なんだか滑稽なような気もするが、「史」ということの根幹にも関わるような、不思議な感じがする。

「個人史」とは何なのだろう。自分が、過去の自分や自分の周りで起こったことを記述する。自分の記憶や手元にある記録をもとに。記憶や記録にある自分は自分と言えるのか。自分のようなものを自分が書くことで、自分のようなものを再生産する。それが「個人史」を書くということなのか。

ぼくは、人類学と芸術表現のゼミのエントリー課題である「自分史を書く」ということに向き合っていた。

そういえば、これまでに「自分史」などというものを書いたことはない。日記やふりかえりは大事にしているものの、改めて自分史を書こうとすると、なんだかこそばゆい。ぼくには幼少期の記憶がない。それはそうだろうと思われるかもしれないが、小学校低学年から以前の記憶が、おそらく他の人と比べても異常なまでに欠落している。ほとんど、何も、覚えていない。もちろん、親から聞いた話で「昔はお前はこうだった」だの「こういうことをしていた」だのを聞くことはある。話を聞く限り、幼少期にはいじめられていたけど、お前は自覚していなくて、それでも幼稚園に行きたくないと毎朝わめき、母のエプロンを破くほどだったとか、幼稚園や小学校では部屋の隅でとにかく一人で小さくなって遊んでいたとか、だから嫌なことばかりだったので、記憶として残していないんじゃないか、とか。まあ、それはごもっともな、親の勝手な理屈だ。でも、もしかしたら、親の言う通りなのかもしれない。

それはそうと、親の話す幼少期のぼくは、ぼくの記憶ではなくて、親が親の記憶を辿ったものでしかない。だから、それはぼくの幼少期の記憶ではなくて、ぼくが親の話を聞いた時の記憶である。でも、ぼくが親の話を聞いた時の記憶を頼りに、「自分史」を書き連ねていくしかない。

このように考え始めてしまったせいか、おもむろに自分の家族構成をノートに書く。自分史とは関係ないよな、と思いながらも。家族構成を書き上げてからは、特段、芸もなく、幼少期から成長していく過程を淡々と記述していく。ノートの見開きに一年分ずつ書こうと決めて、とにかく万年筆を走らせる。1年を2ページずつ。35年分、70ページ。ノートの上では、僕は2ページに一度、1歳1歳、歳を重ねていく。ペラっとページをめくるたび、誕生日おめでとう、と心の中で呟きながら。

肝心の内容について、いま詳しく書いても仕方がない。というより、もう同じものは書けない。同じものを書かなくても良いと思うけど、書くということができないと言った方がいいだろうか。すでに、「自分史」は記録や編纂を逃れ、記憶になってしまっている。過去に書いた「自分史」の内容を書こうとしても、それはもはや「自分史」を書いた時のぼくの記憶でしかなく、つまり、それも過去の「自分史」であり、そのことは、さらに今の「自分史」に書ける記憶になってしまった。何ともややこしい。

ぼくは、「個人史」について書くために、「ぼくが自分史を書いたこと」を思い出し、「ぼくが自分史を書いたこと」を記述した。記述された「ぼくが自分史を書いたこと」の中では、「ぼくがぼく(のようなもの)であったこと」を記憶だけを頼りに記述した。

記述の中の記述。この記述の連鎖は果てしなく続いていくのだろう。だとすると、「歴史」とはどこにあるのだろうか。無限に続くマトリョーシカのようだ。記述の中の記述の中の記述の中の記述の中の記述の中の…いつまで経っても中心には届かない。

ぼくたちはずっとマトリョーシカを作っている。いつまでこれが続くのだろうと好奇心を携えながら、子供のようにただただ遊んでいるだけなのかもしれない。そもそも、マトリョーシカは、本来何に使うものなのだろう。もしかしたら、こういう自分史を書く人のためにロシア人がもたらした秘密兵器なのかもしれない。いや、マトリョーシカは、ぼくそのものなのか?なんということだ。

無限に続くマトリョーシカ。もし、これがぼくそのものだとしたら。そして、ぼくが「個人史」を書くことが、その無限の構造を作り出しているのだとしたら。自分を自分で再生産するその生産物だとしたら。ぼくというものの本体、記述する者としてのぼくはどこにあるのだろう。実は見えていないだけで、マトリョーシカの中心に、何もないように思えるその空間に、記述する「ぼく」というものはいるのだろうか。いや、わからない。でも、ぼくはそんなことは妄想だと思いながらも、これを記述するしかないと思って、今これを書いている。

『マトリョーシカの中心から』という物語はここで終わりである。記述の中の記述、さらにその記述の中の記述。そして、今も僕は<書いている>。段々と訳がわからなくなってきたところでこの文章を終わりにしよう。マトリョーシカを取り出すように読んでいただけたらと思う。

photo: tomohiro sato