出雲”Food”記 #01 移動、食事、会話
フィールドリサーチの仕事
2020年3月、ぼくたちは出雲にいた。
クライアントから依頼を受けたフィールドリサーチを行うためだ。出雲を観光しながら、とあるサービスについてリサーチをする。そんな仕事である。
いきなり仕事の話で、タイトル詐欺か、と思われる方がいるかも知れない。あるいは、会計士、組織のコンサルタントが、フィールドリサーチの仕事を受けるのか、と思われるかもしれない。会計士やコンサルタントも当然、調査をする。例えば、企業内部の現状把握や問題を発見するためであったり、M&Aの前に買収先に対して行う財務調査であったり、それこそ、会計士の専売特許である監査も広く言えば調査の一種だ。しかし、今回のように企業の中ではなく、野外での調査=フィールドリサーチを行うことは稀なことである。ましてや食事と会話の話を書くなんて。
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きっかけはこうだ(と、きいている)。たまたまメタのメンバーが、各地を出張で転々としている際に、お酒の席を幾度かご一緒させていただく機会のあったHさん(仮名)からご依頼をいただいた。聞くに、「とにかく、メタの動き方は興味深く、また理にもかなっているように見える。メタから自分たちの事業がどのように見えるのか、さまざまな観点からリサーチして欲しい」ということのようだ。又聞きのため、佐藤の曲解もあるかもしれないが、つまりは「なんだか面白そうな人たちなので、面白そうなことを調査してみてよ」と、そういうことなのだろう。
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さてそんなところで、ここでは、このフィールドリサーチでぼくたちがどのように動き、どのように語り、そして記述していったのか、そして、「会計」や「組織」というものを超えて仕事をした結果、「ぼくたち自身がどうなっていったのか」ということを書いていきたい。また、今、読んでいただいている方にも、なぜメタの人たちは色々と動き回っているのだろう?という疑問が少しでも解消されれば、と思っている。
ここで、内容に入る前に謝辞を。このリサーチを共にしてくださったクライアントのHさんには、心から感謝申し上げたい。また、本文は、2021年4月に行われたトークセッションをもとに編集したものであり、Hさんにはここにも飛び入り参加いただいた。本当に心から感謝している。またご一緒できることを願いながら、本文を進めたい。
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さあ出雲の話。
さて。ここからが始まりだ。(締め感が出てしまったけれど。)
今回は、調査前の移動について記してみようと思う。調査計画で言えば、Day0=0日目の話。なのだけれど、実際はすでに始まっていた。業務としては調査前だろうが、確かに僕たちは出雲の土地に踏み入ったのだ。出雲ゆえに、あえて神事に例えるならば、禊(みそぎ)のようなものかもしれない。
組織体制のヒアリングやデスクトップリサーチなど事前調査 [*1] を終わらせ、いよいよ、出雲のフィールドリサーチへと向かった。
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[*1] サービス提供のデザイン全体を把握するために、組織体制の調査によって、各現場だけでなく本社事業部での業務体制や、全社での位置づけ等の理解をすることになる。コンサルタントとして、「通常通り」、組織体制に関する調査を含む支援を実施している。事業とは人の束である。マーケットやフィールドを調査するだけでは見えないものも当然にあるのだ。
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コロナウィルスの感染拡大の初期段階で、空港の人はまばらであった。仕事のこともあってか、不思議な緊張感に包まれていたことを思い出す。
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飛行機から臨む土地の形(フォルム)も見逃せない。地形と人の営みは関係している。地形は気候に関係し、つまり、水や食に関係する。海、川、山の距離感が独特の生態系をうみ、物流と交流によって食文化は美味しくなったのだろう。特に、出雲は記紀神話を土地のフォルムに照らしてみると面白い発見がある。
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空港からバスで出雲駅へ。本数が少ないにもかかわらず、乗り遅れそうになるプロジェクトマネジャーがいたことはここだけの話。
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30分ほどバスに揺られ、JR出雲市駅に到着。出雲の空気に戸惑いながら、お腹が減ってさまよう一行。
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食事と会話。
出雲駅近くは閑散としており、お店も数は少ない。コロナのせいもあってか、とても静かな夜だった。お腹を空かせた一行は、とある小料理屋へ。
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夫婦二人で切り盛りする小料理屋であった。
メタにとっては運よく、貸切状態。メタの三人は食事をいただきながら、ご主人、おかみさんと色々な話をすることができた。
ここでは、その話の内容を一部、当時のメモから転記している。記述は(ほとんど)当時のままであり、三人の誰かが話している間に、チャットにメモを流したものである。お行儀が悪いと言えばそうなのだが、その時の空気もいくばくかは伝わるのかもしれないし、生のままの方がメタらしい面白さがあるかもしれないので、そのままの形で載せることにチャレンジしてみたい。
実は、この内容はクライアントへの報告書にも掲載し、その他の調査結果の記述にも大いに影響を及ぼしたと考えている。なぜなら、この記述そのものと記述の内容が、事業、ひいては人の営みの価値に直結するものであると考えるからだ。守秘義務等があるため、詳しいことをここには書けない。それが残念ではあるけれど、どのような内容だったのか推測しながら読んでいただくと、それはまた一つの楽しみ方になるのかもしれない。
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小料理屋のご主人夫婦との話(以下は、ご飯とお酒をいただきながら話した内容を記述する。)
店主はこだわりが強く、ここのこれ、あそこのこれって決まっている。好きな素材しか扱わない感じ。サイズ、季節、漁法、漁場も含め。聞くと楽しそうに教えてくれる。
おかみさん。はじめに、こちらから積極的に話を振ってみると、少し意地悪い対応をしてくる。県外のお客さんに色々教えたり、困らせたり、ちょっかい出すのが好きだと言っていた。
企業の打ち上げ、忘年会なども。価格帯は出雲ではやや高めとのことであったが、我々の満足度からするととても割安に感じた。
医療関係者が全然来なくなった。コロナのせい。「企業関係?〇〇さん関係?」と聞かれた。
仕入れ、仕込みなどは最低限。ここ数日海がしけていて漁に出られない。
コロナの影響もかなり出ており、キャンセル続き。今市町、代官町あたりの人出もまばら。島根はまだ発症者はゼロ。
経済や経営の話もちらほらしてくれる。S50年代に店を始めた時は、好景気。つけ払いも多かった。バブル崩壊でご近所から回収できないものも。死んでからはさすがに回収しない。死ぬ前に払ってくれる人は払ってくれたもの。
店主がてっぴ(ふくの皮)を煮凝りにする仕込みを始める。もともと東銀座のふく料理屋で修行していた。駆け出しは東京東銀座の歌舞伎座の裏手のふく(ぐ)屋。かちどき橋があの頃。尾上菊之助(いまの菊五郎)が嫁さんの富司純子と若い頃きてた。ジュリーも。東京の水は冷たくて、手がぼろぼろになった。
最近はホテルも一泊2万円くらいになることもあった。
歓送迎会もコロナの件で全くない。かき入れどきなのに。昔はお役所や協会?まわりで飲みまくってた。引退したら3年でポックリなんてざら。
最近はないねえ。車の話も。あまり若い人は買わない興味ない。昔の車の話。当時サニーとか100万とか130万円、シルビア高かったなぁ。
この一帯は基本的に、出雲大社神道の氏子。氏子になると月800円で毎月新聞届く。
大きなお祭りが4つある。祈穀祭、大祭礼、献穀祭、須佐神社。須佐男を祀ってある神社が沢山ある。
出雲大社で御祈祷してもらったら、お札もらえるし、拝殿の中にも入れるとの話。辻が厄年なのもあり、拝殿に入りたいのもあり、翌日の計画に織り込む。氏子の営業トークかと盛り上がる
出雲大社の周りを一周して、真後ろからみるとその大きさが分かって好き。
出雲の人の神様の捉え方を教えてくれた。‒雷が落ちるとは言わない。雷が天る(あまる)。あまらっしゃった。
神様のお陰と考える。もし事故に遭ったとしても、神様のお陰でこのくらいの怪我ですんだ。
ぜんざい=神在餅(じんざいもち)出雲大社の真南にある「神西湖」も、じんざいこ、とよむ。神有月に八百万の神を迎える時に備える神在餅(じんざいもち)。それが転じてぜんざい。元々は神在湖とかくのかも?‒巨木信仰説からは、古代にはこの湖の東側に出雲大社の前身があったのでは、という説もあるみたい。
巨木を山から下ろすには大きな川が必要であり、いまの出雲大社の場所は大きな川・斐伊川からは離れすぎているとのことから。
関連して国引き神話の話。出雲の地図を見ていて気になった平野部が南北の山岳部に挟まれている点をお話しすると国引き神話の話になった。
たたら場の話。山側は砂鉄が取れる。製鉄、たたら場が盛んであった。
八岐大蛇伝説での大国主や雨叢雲剣は、斐伊川=八岐大蛇、それを治水や灌漑で治めた地主=大国主、製鉄=雨叢雲剣も関連があるのではないかなどの解釈の材料に。
土地の自然環境、食物を含めた文化や人の営み全般が信仰、史跡に現れているとすれば、これら全てが観光資源となりうる。
出雲弁?島根弁?の番付表が壁にかけてあり、すすすって何かわかるかとの話。ししす(出雲の発音では“すすす”)は、刈り取った稲を自然乾燥させるための物。
だんだん=ありがとう。だんだんの意味を知って、色々なことの意味がわかった。
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料理はお任せ。ほぼ初めての出雲なので、地の旬のものを勉強したいと伝える。
穴道湖の七珍を「すもうあしこし」という。すずき、もろげエビ、うなぎ、あまさぎ、しじみ、こい、しらうお
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日本酒
十旭日じゅうじあさひ純米酒ひやおろし(島根)
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突き出し穴子南蛮。
日本海のアナゴは肉厚で江戸前とは違うおいしさ。富山の穴子も同じ感じ。酢の塩梅はちょうどいい、米酢。やや甘口。
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茶碗蒸しと出汁海苔。
出汁は関西風。醤油からもわかるが味付けは甘味、塩気が控え目。九州、北陸あたりの雰囲気に近い。一切すが入ってない綺麗な茶碗蒸し。具はしらうお、アナゴ。踊り食いする方はしろうお(ハゼ科の稚魚)。長崎に茶碗蒸し発祥の吉宗(よっそう)という卓袱料理の店があるがかなり似ている味。出汁と甘めの味付け。
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煽り烏賊刺身。
店主はアオリイカ(障泥烏賊)が一番だと。ねっとりしているけど、歯切れがいい。ショウガと醤油で。量もたっぷり。あしらいは茗荷、紫蘇。アオリイカは煽烏賊とも書く。アオリイカのヒレは団扇のような形をしており、そのヒレを煽るように動かすことから、「煽烏賊」を語源とする説。九州だと水烏賊。「アオリ」とは、馬具の一種で、泥よけのための革製の用具「あおり(障泥・泥障)」が一般的。
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らっきょう。
お店の手作り。中粒、甘酢。畑で3年、つけて3年。
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甘鯛塩焼き。
25センチ程度の甘鯛があるとのこと。おすすめは塩焼きだというので、任せる。串を3本売ってサラマンダーで丁寧に焼いてくれた。腹の色からすると種類はアカアマダイ。京都だと「ぐじ」っていうけどこちらでは甘鯛。出雲は甘鯛の放流事業もある。
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漁船、漁の仕方の話。甘鯛の釣り方。甘鯛は海底の泥に潜んでる。店主は、焼き魚は丸のまま焼かないとだめ、切り身にしちゃうと嬉しくないよって甘鯛の塩焼きは1人1尾でお願いした。身はふっくらとしていて、口ですぐほどける。漁師さんの血抜きの処理が素晴らしく、身に血管のあとが一切見えない。うちの漁師が、甘鯛をとってくれてすぐ血抜きしてくれるから、臭みが全くない。基本はそのまま、後半は醤油を少しつけてもおいしいといって、焼き魚用の醤油を出してくれる。
醤油は九州と近くあまい。醤油がほしいって伝えたら、500円で小瓶を分けてくれるって言ってくれた。
九州と山口・島根あたりの醤油は一般に甘い。福岡県や山口県で消費されている醤油の甘味は、全国平均より多い。刺身用の醤油として、「甘露醤油」などと呼ばれるとりわけ甘いものを好んで用いる。
この地域で好まれる甘口の醤油、上等なものは「再仕込み」といって、普通は麹を仕込むときに塩水を加える所を生醤油を加えて混ぜるため、たまり醤油のような(たまりとは別物だよ)濃厚なトロっとした甘めの醤油になる。安い量産品は砂糖や甘味料の影響でベタっとした甘さの醤油になる。
九州や中国地方では昔からサトウキビが穫れたことから砂糖が身近で、中国大陸や南蛮文化の影響などで甘く濃い醤油が好まれた。タイなど白身魚の刺身にはこの甘口醤油が旨味を引き立てる、という味覚。
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甘鯛の骨の吸い物、ごはん、漬物。
塩焼きの骨、皮、ヒレに沸かした湯と少しだけ醤油とあさつきをあしらって、吸い物にしてくれた。ヒレへの化粧塩とほんの数滴の醤油のみ、骨を少し崩しとだしが溶け出して、素晴らしい塩梅。
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これに白米、広島菜とじゃこの合えたもの、味噌漬けの沢庵。広島菜は広島の知り合いが毎年たくさん送ってくれる。
出雲のコメの話。山手の米はおいしいが、宍道湖から東側の米はよくない。(出雲、松江の関係?)奥出雲の手前で米はたくさんある。仁多米(コシヒカリ)は西日本で一番との記事も多い。
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土地に入る。
長々とフィールドノートめいたものをご覧いただいた。さて、あなたはどのように感じられただろうか。
ぼくたちはその時、出雲に入れた、という気がしたのだった。何となくだけれど。
土地にいる、ということは、その土地で暮らすことであり、そこには当然、飲食が伴う。ストレートに言えば、身体は食べたものから構成されている。そういう意味で、一種の通過儀礼というか、禊のようになるのではないか、とも思う。
また、何よりぼくたちを揺さぶったそれは、「地元の方が上述のような話を、ぼくたち観光客(出張客)に対して、食事の場において共に語ったこと」にあるのだろう。そこには広い意味での交換(交流)があったという事実である。交換の場とは、市(いち)や港にみられるように、交通の要所、道の始点と終点の間にある。すなわち、交換の場とは常に境界にあるものだ。
この小料理屋は、ぼくたちにとって、東京と出雲の間の境界であった。
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料理をつくる人がいて、それをいただき、共に会話をする。
そして、土地に入ってゆく。
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こうして、ぼくたちメタ一行は、出雲に入っていったのだった。
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(次回へ続く…出雲の土地を巡る…)
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photo: tomohiro sato(M^)