前回のふりかえり

前回までの語りは、「会計士には、お金の呪いがかけられている」という話から始まった。そして、「価格、バランス、贈与、循環」というタイトルの通り、貨幣的価値としてのお金(値付け)の話から、非貨幣的価値を含んだバランスと、交換/贈与という行為とその循環について、語ってきた。前回の文章は、(拙筆ながら)この語りの過程を記したつもりである。

今回の語りでは、『ポスト資本主義オークション』という参加型のアート作品に参加したことを思い出し、そこから、「お金」についてのさまざまを語った[*1]。ここでは、この語りの内容を(部分的にではあるけれども)記述してみたいと思う。

[*1] 本文章は、2021/3/9に行われたClubhouseでの語りを元に、文章として表したものである。Clubhouseでは、隔週、『Metaの間』と題して、Metaの活動や価値観についてメンバーと語る場を開いている。(なお、2021/4/12時点で、Clubhouseではなく、Zoomでの開催に切り替えようとしているところである)

とある参加型アート作品にて。

2019年2月、メタメンバーの辻と佐藤は、『ポスト資本主義オークション』というアート作品に参加した。詳細な内容はこちらを一読いただきたい。ただ、この作品について、本文章で必要となる点は、以下、引用しながら、ぼくなりの理解を示しておきたい。

まず、『ポスト資本主義オークション』とは何か。引用する。

”北京出身のアーティストが提案する、オルタナティブでパフォーマティブな、しかし現実の、現代美術オークション。参加者/観客はお金だけでなく「理解」「機会」「交換」(ピエール・ブルデューの概念「経済資本」「文化資本」「社会資本」「象徴資本」から着想)でも入札できる。出品者はアーティスト自身で、オークションの場に出席し、誰に「いくらで」作品を売るかを決定する。”(TPAM 2019 Websiteより)

通常のアートオークションと方法の面でどのように異なるか。誤解を恐れずに、ぼくの理解を要約するならば、以下の3点で異なるものである。

・「お金」(=貨幣)以外も交換手段として使えるオークションである。非貨幣の交換手段として、「理解」「機会」「交換」を使うことが可能である[*2]。また、これらは組み合わせて使うこともできる。

・ただし、「理解」「機会」「交換」は入札者からその内容を説明しなければ、出品者がその内容を把握できない。そのため、入札者に説明の時間が与えられる。

・そして、価値評価の基準が貨幣価値に限られないため、出品者自身が価値評価を行う。その場で、誰に落札するか(もしくは不落か)を決定する。(貨幣=「お金」だけであれば、1円より100円の方が高いと容易に判断できるが、非貨幣も含む場合にはそれは難しい)

このように少し変わったオークションに参加し、観客として眺めるだけでも非常に面白い場であった。場をしかけたアーティストや、出品者や入札者、そして、それを眺める観客やアドバイザーたち。人が場を通じて何かをすることで、様々な行為や意味が浮き上がってくる。ものすごい場である。この場そのものが「アート作品」であると感じられた。これをアート作品の一つとして、場を開いたことも非常に興味深いし、「これはアート作品なのだ」と言われて、非常に納得できるものがある。

「オークション」という形式は、資本主義的な交換様式の最たるものであると思われていることだろう。市場の価格決定メカニズムの原型とも言えるものだ。この作品は、この資本主義的な様式に、「あえて則る」ことで、資本主義を問いかけることに参加者を引きずり込む。そして、さらにその先のポスト資本主義の限界と批判、ポスト資本主義も含む資本主義を超える何らかの可能性を提示する。ありきたりではあるが、このようなことをぼくたちは思い、オークション終了後、帰途に着く間にその凄さを語ったのであった。

入札者の「理解」や「交換」の話は大変に刺激的で面白いものが多かった。だが、ここでは、その内容のそれぞれについて記述することはできないため、メタメンバーが入札し、そこから感じた話を記述しようと思う。


[*2] 「お金」「理解」「機会」「交換」は、入札方法『ポスト資本主義オークションとは』で、以下のように説明されている。

”お金:従来通りの方法。金額を提示して入札します。”

”機会:入札者は、アート作品と引き換えにアーティストのキャリア形成 につながる機会を提供します。例えば、人脈や業界での有力な口利きといった「社会資本」を持ち、展覧会の機会を用意したり、アーティストのキャリア発展につながるコネクションを紹介したりなど。”

”理解:このカテゴリの入札者には、作品を落札するためにアーティス トとのつながりをアピールする機会が与えられます。例えば、美術史やその他の理論・実践に適宜言及しながら、知的な解釈や作品の文脈との関連性を示すなど。もしくは、情熱と切実さに溢れる感情的な見解を示し、作品に対する私的な解釈を提示しても良いでしょう。なぜその作品が自分にとって魅力的なのか、なぜそれが自分の「運命の相手」なのか、など”

”交換:入札者は作品と引き換えにモノまたはサービスの交換を申し出ます。有形のものでも無形のものでも構いません。交換は、実際の オークション会場で発生する可能性もあります。 入札者の想像力が、 このカテゴリに与えられた唯一の制限かもしれません。”

オークションに入札してみた

結論からいえば、メタメンバーの佐藤は入札し、そして、不落であった。競売に負けたのである。

入札した作品は、BCLの『©HeLa』(詳細はこちら)。アーティストや作品の詳細は、リンク先をご覧いただきたいが、一言で言えば、医療における身体に係る権利だけでなく、写真や制作物に係る著作権は誰にあるのか、という問いを、二重に、かつ、フラットに投げかける作品である、と理解している。

佐藤は、「理解」と「交換」を提示した。具体的には、この作品のテーマを、「身体的権利の構造的隠蔽」を「理解」として示し、それをフィルム写真を用いた作品として表したものを「交換」する、ということで入札した。

具体的には、家族が医療機関で手術をする際に、その診察や検査等によってえられたデータを今後の医療研究に使用して良いかの承諾書を、最近、本人に代わり同意した、という体験をしたことから「理解」を展開した。このことにより、そのデータの所有権は誰のものなのか、同意したことにより、どのような影響があるのかを述べつつ、法的権利関係から複雑な感情、端的にいえば、後ろめたさのようなものを感じたという経験をしたのである。

その後、家族は手術をした。それにより、身体にはその手術跡が残っている。その手術跡は、ぼくの後ろめたさを照射する。だからこそ、その手術跡をフィルム写真機で撮影し、その後ろめたさの象徴とする。そして、さらに、それをすぐに現像するのではなく、『©HeLa』が撮影をする場所において、撮影したフィルムを現像する前に感光させる。つまり、写真は撮影しフィルムに収められたけれども、現像してプリントしても真っ白に感光したものしか現れない。この権利関係とぼくの後ろめたさの象徴としての手術跡の写真と、それを隠蔽するための感光という行為。それを作品として「交換」する。

無茶苦茶なことを思いついたものだ、と思う。これを、数分あったかどうかの作品説明の間で思いつき、入札のボタンを押したのであった。佐藤としては、会心の「理解」とアート作品の「交換」であった。なぜ、このような「意味」が生まれてきたのか、そして、思いついたとしても、それを多くの前でプレゼンテーションをし、入札したのか、何が佐藤を動かしたのかはよくわからない。

とはいえ、オークションには負けた(笑)。悔しいが仕方がない。

結果的に、アーティストがなぜ他の入札者の提案を選択したのか、その理由は開示されていない。ただ、理由が開示されていなかったからといって、その公正性が担保されていないとはいえないだろう。なぜなら、このオークションは、入札者ではなく、むしろ、出品者=アーティスト側の選択が公開されているところに、その出品者=アーティストの価値観を照らす力があるものと思う。つまり、どの入札を選択するか、アーティストの価値観やセンスが現れる。しかも、その場で、短時間で、みんながみている中で判断しなければならない。例えば、「お金」を提示したAさん、「理解」を提示したBさん、出品者はAさんを選んだとしよう。ああ、出品者は、Aさんの提示を選択する価値観なのだな、と観客は思うはずである。もちろん、金額や理解の内容など色々なことが判断材料となるわけだけれど。つまり、アート関係者も参加している中で、アーティストの価値観が問われるのである。もしかしたら、この「交換の現場が目撃されている」ということも、この作品の提示のひとつなのかもしれない。

当然ながら、皆、その眼差しを前にして、本気で悩んでいたように見えた。出品者側も入札者側も、真摯にオークションに臨んだであろうと思うし、それをその場で感じ取った。だからこそ、ぼくたちは、貨幣の力を本当に思い知るのだった。

貨幣の力を思い知る

貨幣の力とはどういうことであろうか。ここで、貨幣の機能について簡単に説明したい。一般的に、貨幣には、交換機能(決済機能)、価値尺度機能、価値保存機能、の3つがあると言われている。

価値保存機能は、貨幣として価値を保存できるということだ。原始の社会を思い浮かべてみればわかりやすい。魚を釣ったら、他のものと交換できるとする。しかし、魚は、数日もたたないうちに腐って食べられなくなるだろう。つまり、魚の価値保存機能は、貨幣のそれに大きく劣る。

交換機能は、貨幣があればさまざまなものと交換できるという機能である。魚の例であれば、魚が欲しい人でなければ、魚との交換に応じてくれない。貨幣であれば、貨幣が欲しくなくても、他のものと交換できることを見込んで、交換に応じてくれるかもしれない。物の種類が異なっても交換を実現する。

価値尺度機能は、価値の尺度を貨幣の単位で測れるようにするという機能である。例えば、魚一尾が百円のものと、魚一尾が1万円のものがあったとしたら、その価値の高低が貨幣的には測れるであろう。他方、ポスト資本主義オークションでは、貨幣以外の手段では価値尺度機能が働きにくかったから、出品者は落札するかどうかの判断を苦慮したともいえる。アート作品に対して価値が適正であるかを測るという観点において。

このように貨幣の3つの機能を、上述のポスト資本主義オークションに照らせば、その力のつよさを理解するには容易であろうと思う。もし、それでも、貨幣の力が想像できないのであれば、「貨幣を使わないで1週間過ごしたとしたらどのようなことが起きるだろうか?」と問うてみると良いと思う。もちろん、現金だけではなく、クレジットカードや電子マネーなども貨幣の一種である。ぜひ思考実験として試してほしいと思う。(実際にやってみても面白いかもしれない)

ぼくたちは、貨幣という便利な道具を得ることで、交換においてあらわにされるべきであった価値観・価値基準を隠蔽したまま、それを忘れてしまったまま、過ごしているのかもしれない。ただ、これはいくらで、これは買える、だから買おう。そういう反射的な振る舞いに一石を投じられたように思う。貨幣の機能の強さ、裏返せば、貨幣の隠蔽力の強さ、そしてそれを忘れてしまっている人間の認知…

さて、ここまではお決まりのポスト資本主義観と言えるだろうか。資本主義・ポスト資本主義を考えるにあたり、よく議論される事項のように思う。だが、ここではさらなる思索を試みたい。

(いささか、思索、論考が甘く、試みに終始する気もするが…これを前提にお付き合いいただける方はぜひお読みいただき、さまざまなご意見、ご指摘をいただけると嬉しく思う。)

交換と意味づけ

このように、貨幣は3つの機能の発揮によって、(交換における)物事をわかりやすくする。これは現代人にとって異論のないところであろう。逆にいえば、意味がわかりにくい物事は価値評価しにくいともいえる。

例えば、わけのわからないアート作品や骨董品で高い価格が付いていたとき、それを買うかどうかの価値判断は非常に難しい。今回のオークションでも、出品された作品に対し、どのように入札するか=対価として何を提示するか、非常に悩んだ。また、メタの生業の一つであるコンサルティングサービスなども類をもれず、わかりにくい(事前に信用されにくい)ものであると、日々、仕事の中で感じている。

わかりやすいものほど価値評価しやすい。このように考えてみると、交換取引は、その対象や条件がわかりやすいほど、成立する可能性が高まる。交換のため、価値評価しやすく、値決めがしやすいからだ。

ここで、わかりやすい=理解しやすいことは、意味づけがしやすいことである。と(乱暴だが)言い換えることが可能である。これにより、「意味づけされる(しやすい)のであれば、交換取引が可能(容易)である」ともいえるのである。

先のオークションでは、メンバーの辻は「入札したかったけど、できなかった」。「その時は差し出せるもの」がなかった、と語った。他方、メンバーの佐藤は「自分の体験から、今まで気がついていなかった意味が自然と生まれてきた」し、「それが言葉として現れた=生成された」ため、入札することができた。つまり、この対比からは、意味づけできた者は交換に参加できるという意味で、「意味づけされるのであれば、交換が可能である」といえそうである。いや、むしろ、「交換は、意味づけの場である」ともいえそうである。

「交換」と「意味づけ」について、一つ例をあげてみよう。語りの中では、松茸(マツタケ)の話が例に挙げられた[*3]。マツタケは日本の市場では高価なものとして扱われている。しかし、その原産地、その住民たちによれば、マツタケは高価なものというよりも、低価なものとして取り扱われている、という。つまり、採取から販売に至るまでの過程において、マツタケは、市場の価値評価=値付けという意味づけがなされ、採取地と販売地ではその意味内容が相違してしまっているということである。例えるならば、伝言ゲームのようで、徐々に伝言の内容が変わっていってしまうような。このことから、交換(市場)取引は、意味づけ(この場合、ある種の誤訳、誤解)によって駆動されているのだということであろう。交換により、意味づけられる。

また、交換によって、意味づけられることもありうるだろう。例えば、マツタケやブランド物などより高品質の商品を買った時にこう思ったことはないだろうか?「価格が高いのだから高品質なのだろう」と。これは、高い価格での交換を行ったことにより、おそらく高品質なのだろうといった意味づけがなされている。

この点、先に述べたように、ポスト資本主義オークションにおいて、「なぜ、このような<意味>が生まれてきたのか、そして、思いついたとしても、それを多くの前でプレゼンテーションをし、入札したのか、何が佐藤を動かしたのかはよくわからない。」ということが起こった。これはまさにポスト資本主義オークションという交換(の場)において、新たな「意味」が生成されたのだと思う。そして何より、実際に、写真作品のアイデアもうまれ、実際にその後、制作されている。このように「交換」があるから、生まれるものもある。

意味づけにより交換され、交換により意味づけられる。この「交換」と「意味」の関係からは、「交換は、意味づけの場である」ということがぼくたちがこのオークション、そしてその後の語りから考えたことである。

[*3] これは、アナ・チン『マツタケ――不確定な時代を生きる術』(みすず書房)を参照しながら、語られた話である。本文章ではその内容の概観的理解とこれまでの議論にひきつけての理解としているため、同書及びその著者の主張とは異なるものである可能性があること、ご容赦いただきたい。

意味の氾濫と意味の生成

オークションは、交換の場として非常にわかりやすいだろう。他方、交換は、オークション以外でも行われている。近所のスーパーでも行われる。当然だ。また、一見、貨幣による交換がないように見えても、例えば、SNSでは「いいね」をはじめとして、さまざまな交換がなされている。前回述べたように、意図せざるバランスにおいて、ぼくたちが認知し得ない交換が(経済的な面に限らずに)あちらこちらで行われていると想像できる。

急に大きな話になってしまうのだけれど、戦後経済の歴史を辿れば、大量消費=大量生産が進み、マスメディアの台頭、インターネットの高度化によるフリー経済の拡大は、以前と比べ、間違いなく交換の物量を増加させ、加速させただろう。それは、モノ(財やサービス)から始まって、それらに限られない様々な情報(例えば「いいね」)をも交換の対象として可視化してきた。現代(資本主義)社会は、この「交換」の量の増大と加速によって、「意味」が氾濫していると考えられないだろうか。

そして、交換の量の増大と加速は、意図せざる意味の現れと、認知しえない作用をも当然に引き起こし、それらは溢れかえる[*4]。現実に今それらは起きている。たびたびあげている「やりがい搾取」は、まさにこの例であろう。やりがいのある仕事だから、という意味だけでなく、意図しなかった「搾取」という意味(構造)が現れる。そして、それが社会問題と意味づけられ、メディア、インターネットを駆け巡り、さらに様々な意見、意味を氾濫させ、実際に「やりがい搾取」という(ネガティブな)現象として表れていく。言い換えれば、一つのネガティブな事象が、多量の交換と意味づけを通じて、一つの意味に収斂(しゅうれん)していく。「残念ながら単価は低いけどやりがいのある仕事」に、「やりがい搾取」の意味づけがなされていくこともあるだろう。もちろん、本当の意味で搾取の構造となってしまっている交換取引もあるだろう。少しネガティブな面を強調しすぎたかもしれない。ただ、”SNS疲れ”などと揶揄されることの根本はこの点にある気がする。

大事な点は、「この無限に増え続けるともいえる交換・意味の氾濫にどう向き合えば良いのか」ということであろうと思う。

この問いに対するぼくたちの答えは、一つには『ポスト資本主義オークション』が示してくれている。つまり、「交換(の場)に真摯に向き合う」ということである。そして、その前提として、「自分の内的世界に基づくこと」にある[*5]。前回まさにその点について述べているので、以下に引用する 。

”想像を膨らませてみればわかる通り、価格、バランス、贈与の話は、経済的な循環の話だけでは収まらない話になってくる。カール・マルクスが昔々に説いたように、経済と自然環境の循環は切り離して考えることができない問題のようにも思う。それどころか、ぼくたち人間の価値観など内的な世界にまで及ぶし、自然のあらゆる事物が関わってきていることに気がつく。つまり、「値決め」一つをとってみても、自然環境やぼくたち自身の内的世界が反映されてしまうということなのだ。”

ぼくたち人間の価値観や内的世界をしっかりとみつめ、それに基づき交換を行う[*6]。また、交換によって、内的世界におこる新たな意味をみつめるということではないだろうか。なぜなら、先に書いたように、「交換においてあらわにされるべきであった価値観・価値基準を隠蔽したまま、それを忘れてしまったまま、過ごしているのかもしれない」からだ。

今、インターネット、SNSでは、さまざまな意味が氾濫している。バズワードが飛び交い、映える写真が洪水の如く流れゆく。一般的な意味では何事も浮かばれない社会になってしまったように思う。そのような氾濫の中で、ぼくたちがぼくたち自身の内的世界をみつめ、交換すること、そこから新たな世界を表すこと。それこそが、ぼくたちが関心を寄せるところである[*7]

[*4] 考え始めると、意味が溢れかえってくる。意味が過剰に表れてくるようにも思える。何かを考え始めたら、無限の意味が考えられる。これを哲学者・千葉雅也は<意味がある無意味>と呼び、意味が無限に溢れかえることを指摘し、これと対立する<意味がない無意味>にこそ関心があると述べた。そして、<意味がない無意味>とは、「身体」であるとした(千葉雅也『意味がない無意味』河出書房出版社、pp.11-12)。同書ではトマトの例があげられている。トマトの意味は無限に考えられる。トマトは赤い、トマトの種類は何だ、、、など「思考」することで無限に意味づけられるし、ぼくたちが認知し得ない意味が無限に存在すると「考えられる」。この無限に思考できる意味が<意味がある無意味>である。さらに例を挙げれば、Twitterでの炎上やクソリプ問題は、いくらでもネガティブな意味づけをすることができる(いちゃもん)という点で<意味がある無意味>の氾濫であるといえるだろう。

[*5] これは[*4]の千葉に従えば、<意味がない無意味>=身体とも近いものであると考えている。千葉は同書において、一般的な意味よりも広く身体を捉えており、からだ、だけでなく「集まり」や「空想のイメージ」「絵画に描かれた形態」なども身体としてあげている。そして、”<意味がない無意味>とは、我々を言葉少なにさせ、絶句へと至らせる無意味なのだ”と記している(千葉雅也、前掲書p.12)。もし、我々の内的世界(千葉のいう”身体”)に基づくことができるのであれば、まさに「言葉少なにさせ」「絶句」へと至らせることとなりうるのだろう。「思考」による<意味がある無意味>に蓋をして、「身体」による<意味がない無意味>により行為する。意味の氾濫を寄せ付けない、そのような身体へと。”考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない”のである。(千葉雅也・前掲書p.12)

[*6] 語りの中では、お金をめぐる表現には「身体」の部位の比喩が多いのではないか、という話も上がった。例えば、「身銭を切る」。まさに「交換の場において、意味を生成すること」には、「身銭を切る」側面があるだろう。

[*7] 組織開発の文脈で言えば、ケネス・ガーゲンは、”生成的能力とは、つまり「文化的に従うべきとされる前提に異議を唱え、今の社会について根本的な問題点を見出して提起し、『当たり前』とされている物事を見直し、それによって社会的行動の新しい形を提供する」(Gergen, 1978, p.1346)ためのアイデア、モデル、あるいは理論の潜在的可能性である”と述べ、”「個人的な価値観やイデオロギーは、生成的に思索する主な動機の源となる。このようにして、探究者は文化の中に完全に入り込み、人間社会の最重要課題とも言える価値観の対立という問題に、その根本から取り組むことになるのである。”と述べている(ジャルヴァース・R・ブッシュ、ロバート・J・マーシャク、中村和彦訳「対話型組織開発 その理論的系譜と実践』英治出版、p.177)。

「お金の哲学」のいったんのまとめ、そして結び。

さて、案の定長くなってきたので、そろそろまとめに入りたいと思う。

前回は、お金の哲学の実践について、以下のように記した。

「だから、ぼくたちMetaの会計士メンバーは、そのある種の壮大な呪い(のろい)にかけられているけれども、それを誰かの救いになるような呪い(まじない)として、再びお金の意味を取り戻そうとしているのかもしれない。それこそがまさに、お金の哲学の実践なのであろうと思っている。」

そして今回述べたように、お金は交換を可能とし、意味づけを行うモノである。だが、意味は氾濫する。だからこそ、ぼくたちのお金の哲学の実践を、さらに以下のように表すことができるだろう。

「お金をめぐる現象(交換)とその意味を明らかにし、自分たちの内的世界に基づいた新たな意味で捉え直すこと、つまり、意味(もしくは身体)を生成すること、それを可能にするような場になること。」

ぼくたちは、この交換と意味の氾濫、そしてその世界を巡る循環から(良くも悪くも)逃れられない。だからこそ、そこにあるゆらぎを引き受け、さらにゆらいでいくのだ。これが、ぼくたちの実践の哲学であり、これからもまた実践を続けていくのだろう。



今回も非常に長くなってしまった。まだまだ論考が甘く、思索を深める必要があると感じているが、今はこれくらいしか語れないのも確かである。これは「お金の哲学」の入り口にたったに過ぎないし、もしかしたら、入り口の先には何もないのかもしれない。とにかく、これまでの実践やアート作品への参加を通じて、大変に哲学的な問いを引き受けたものと感じていることを記し、これを(一旦の結論として)結びにしたいと思う。

(了)

photo: tomohiro sato