会計士には、お金の呪いがかけられている。

”呪い(のろい)とは、人または霊が、物理的手段によらず精神的あるいは霊的な手段で、悪意をもって他の人や社会全般に対し災厄や不幸をもたらせしめようとする行為をいう。”

他方、会計士は、お金の呪いが使える、ともいえるのかもしれない。

”呪い(まじない)とは、神仏その他神秘的なものの威力を借りて、災いを取り除いたり起こしたりしようとする術をいう。”

お金というのは大変に難しい。そして、お金について考えることは、あまり良くないイメージがまとまりついている。ある種のイメージが歪みを生んでいる、そういう場面にぼくたちは仕事柄、直面することが多いように思う。でも、お金だって万物の事象の一つのことにしかすぎない。だったら、他の事物と同等におもしろく考えることはできないか、と思い、みんなで語ってみた。


ことの発端、値決めの問題。

Metaは、(基本的には)フリーランス集団である。それぞれの専門性をもちながら、ゆるくつながっている場である。であるので、大体、いくらで仕事をしようか?普段、いくらで仕事を受けているの?みたいなことを、構えすぎずに話すことが多い。いわゆる「値決め」の問題だ。

「値決め」について、みんなに考え方を聞くと、いわゆる「相場」の力は強く、それとトントン、どっこいどっこいな価格を提示する、もしくはよくわからなくて…ということがよく聞かれる。でも、もっと色々な考え方があるじゃあないか、と、たまには会計士っぽく語ることがある。その時の語りにおいて、そうか、なるほど、と会計士以外も会計士も唸ることが多いので、改めてそれについて語り、論考を広げ、文として起こすという試みである。


価格と価値と。

さて、ことの発端、値決めは難しいという話から始めよう。読者の皆さんは、普段生活している中でも、色々な価格を目にすることだろう。そこでは、同一のものについても、価格は一定ではないし、同時に複数の価格がつくことがある。例えば、近所のスーパーでも、野菜一つひとつの値段が違うことがあるだろう。そしてそれは日々変動していることにも気づくだろう。しかし、大体のところ、相場、つまり市場価格(相場)がある。少しの差はあるかもしれないが、大きな差はない。もし、同じ野菜でも大きな価格差があるのであれば、それは同じように見えても、品質等が大きく異なる場合が多い。

では、「値」=価格は、売り手が決めれば決定されるのであろうか。何を当たり前のことを、と言われるかもしれない。スーパー=売り手が値札に書いているのだから、価格は決定しているのだろう、と。本当にそうであろうか。

ここで、価格とは別に、価値というものがある。価値には様々なものがある。思いつく限りでも、効用価値、労働価値、使用価値、生産価値、株式価値、負債価値、企業価値、事業価値、割引現在価値、純資産価値、エトセトラ。対象とする事物や計算方法などによって、名に価値とつく名詞は枚挙にいとまがない。

また、価値は人によっても様々である。同じものを見ても、文字通り、価値観によって、価値を観る仕方は異なるものだ。ぼくにとって価値のあるものは、あなたにとって価値のあるものとは限らない。また、 価値は状況によって変動するものでもある。いまぼくがこれには価値がある、と思っていても、この先未来永劫、これに価値があると思えるとは限らないのだ。

実は、交換においては、大まかに言って[*1]、この価格と(経済的)価値が折り合うところで取引価格が決定するものと考えられる。価格が100円のものに、100円以上の価値があると(交換時に)感じられれば、それを100円で買うのである。当然、これはわかりやすく貨幣換算すれば(できれば)、の話である。

[*1] これは感覚的にはいえるのだが、この価格決定のメカニズムについては、理論的には古典派経済学から始まる経済学の世界で日夜研究されている。ここでは、キリがないので、興味のある方は調べていただくこととして、大まかな議論を進めていきたい。

本当に価値が100円以上であったのかは、買ってみてからでないとわからない。交換後に損したなと思うこともあれば、得したなということもある。さらにいえば、買ったものの効果や便益(効用)というのは、貨幣換算できない要素もたくさんある。経済的損得の他にも、感じられるものがあるということだ。これは普通に考えて、そうであろう。

例えば、美味しいご飯を食べに行った時、体調が悪い時と万全な時では、同じ価格で同じものを食べたとしても、その満足度は全く異なるものであるといったこと。もしくは、あいつにはこれを譲っても良いが、別の人にはいくら積まれても譲らないなどということも一つの例として挙げられるだろう。

長々と説明してしまったが、要するに、ぼくたちは貨幣換算できる経済的な損得以外の部分においても、交換をしているといえる。そして、「値決め」の話に戻るとすれば、売り手と買い手が、表面上の経済的な損得だけでなく、それ以外の見えにくく考えも及ばないような要素も考慮した上で、「値決め」をしているのだ。

しかし、これは、どういうことなのだろう。


バランスしているから、贈与する。

この点、会計士はすぐに複式簿記で考えたがる。貨幣換算を前提とすれば、価格と価値に差額があれば、それらは損得で考える。なんとか益、なんとか損と、すぐに仕訳を切るわけである。

(借)現金 100  (貸)棚卸商品  80
            (貸)商品販売益 20

これは仕訳の一例で、わかりやすくするために、厳密さに欠けるかもしれないがご容赦いただきたい。このように差額を、利益(または損失)と置くことで、左と右の合計(貸借)を一致させる。これを、英語ではBalanceという。会計士もよく使う。「Balanceしてる?」。(この時、Balanceの発音が非常に大事であることは言うまでもない)

さて、会計の世界ではこれを貨幣換算できるもののみで表現していく。だが、ぼくたちは、これを貨幣換算できない部分に拡張して考えている。すると、色々なバランスの様子が見えてくる。バランスの金額(量)に対して、バランスの質、と言ってもいいのかもしれない。

例えば、先程の「値決め」の話。フリーランスにはよくあることだが、「やりがいがあるから、面白いから、安くしてくれないか」というオファーがある。社会的には「やりがい搾取」などと揶揄されることもあるという。これは、まさに典型的な例である。①労力に見合わない低い金額、②それをカバーする貨幣換算できないもの=「やりがい」「面白さ」、この2点で報酬が構成されている。本来100万円の仕事を30万円にしてくれ、という場合には、まさに①が30万円、②を強制的に貨幣換算すれば70万円である。

しかし、実際はどうだろうか。実は、②は70万円であるとは言い切れない。なぜなら「やりがい」「面白さ」は買い手が勝手にいっているだけであって、売り手の価値観がこれと同じであるかどうかはわからない。もしかしたら、他の要素でプラスに捉えることができればこれに納得できるかもしれないし、ネガティブに捉えてしまようであれば仕事を受けることはないだろう。このように、貨幣換算できないものの部分、それは、価値観に大きく依存する部分である。この価値観に大きく依存する部分が、交換(取引)には、確かに存在している。そして、それは貨幣額に注目してしまうが故に、大変に見えにくくなっている。ただ、間違いなく、その存在を考えると、あらゆる交換はバランスしているとも言えるのだ。

バランスとは本当に不思議な言葉である。日本語では、バランスを取る、とよく使うかもしれない。バランスは「取る」ものである、というのだ。この一般的な用法とは別に、ここまで考えてきたことからは、むしろ、バランスは「取る」ものではなく、「してしまっている」という感じがする。「バランスしてしまっている」。なぜなら、貨幣換算される部分も、それ以外の部分も、ぼくたちは全てを認知できない、ぼくたちの認知には限界がある一方で、認知できない部分があっても交換(取引)を合意しているからである。意図しない、認知できない要素が交換されており、気が付かないうちにその交換取引はバランスしてしまっている。そう、ぼくたちは、交換において、意図せずにバランスしてしまっているのだ。

もしかしたら、「この意図せずにバランスしてしまっていることを認知せず、交換を行なってしまうこと」を「贈与」というのかもしれない[*2]

確かに、ぼくたちがこのことについて語っていた時、そのようなエピソードが話された。人に贈り物をする時に「これは贈り物(贈与)だから」というのは野暮であリ、それを贈り手がいってしまったら贈り物でもなんでもない、というようなことである。確かにそうかもしれない。つまり、ある種の意図しない、もしくは認知しない、そのことを明示しない(できない)ということこそが、贈与であることを成り立たせているのではないか、ということである。そういう意味で、意図せずにバランスすることが贈与の前提であり、それを僕たちが認知していないということが贈与の本来の姿なのかもしれない。贈与は意図してできるものではないのかもしれない[*3]

[*2] もちろん、贈与に関する先行研究は、ご存知の通り多種多様にある。例えば、社会学者のマルセル・モースは、様々な国家や部族社会の社会制度や経済原理を調査した結果、贈与(によって与えられる富)は支配することである、というようなことを論じている。また、モースはさまざまな社会における交換や給付について、その反対給付性がみられることを指摘している [マルセル・モース『贈与論』(ちくま学芸文庫)より]。これは複式簿記でいう何かしらのバランスをしている、といいかえることができるものと理解している。ただ、誰が意図していないのか、認知していないのか、など細かい点は今回の論考では定義しきれていないため、引き続き思索を進める必要がある。

[*3] 哲学や批評の世界に目を向けると、贈与を交換の失敗である、と批評家・東浩紀はいう [東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』ほか]。他にも、哲学者・近内悠太は、「僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動」を、贈与と呼んでいる [近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(NewsPicksパブリッシング)より]。これらは、思考の過程や文章表現が異なるかもしれないが、概ねは同じことを論じているように思える。


そして、循環へ。

このように考えてみると、ペイフォワード(Pay it forward)とはどういうことが起こっているのか、見えて来るような気がする。ペイフォワードは、ある人物から受けた親切を、また別の人物への新しい親切でつないでいくことであり、ある種の贈与めいたことを連続して行なっていくということだ。前述の考えを元にすれば、それはただ先に贈られていくだけではなく、常に贈り手:贈られ手の1:1でもバランスしており、先々の贈り手贈られ手を含む全体でもバランスしているというふうにも捉えられる。

これは、贈与でなくても、あらゆる交換で起こっていることと考えられるはずである。貨幣換算額=経済的な循環もそうであるし、貨幣換算できない部分もそうだ。交換によってあらゆる要素がバランスしている。想像していくと、無限の奥行きがある謎の交換・贈与空間にポイと放り出されて、気の遠くなるような連関が見えてきて、ふわっと浮遊感を感じてくる。(いや、しないか。)などと考えていると、質量保存の法則や熱力学の法則を思い出す。自然科学的にみて、どのような反応や変化(ある種の交換)があったとしても、全体で見れば、質量やエネルギーの総量は変わらないということである。え、本当に?確かに化学式や数式ではそうかもしれないけど…と。しかし、エントロピーの増大があることも確からしい…さて、いよいよ気が遠くなってきた…

想像を膨らませてみればわかる通り、価格、バランス、贈与の話は、経済的な循環の話だけでは収まらない話になってくる。カール・マルクスが昔々に説いた[*4]ように、経済と自然環境の循環は切り離して考えることができない問題のようにも思う。それどころか、ぼくたち人間の価値観や内的な世界にまで及ぶし、自然のあらゆる事物が関わってきていることに気がつく。つまり、「値決め」一つをとってみても、自然環境やぼくたち自身の内的世界が反映されてしまうということなのだ。

だから、ぼくたちMetaの会計士メンバーは、そのある種の壮大な呪い(のろい)にかけられているけれども、それを誰かの救いになるような呪い(まじない)として、再びお金の意味を取り戻そうとしているのかもしれない。それこそがまさに、お金の哲学の実践なのであろうと思っている。


次回は、ポスト資本主義観について。

さて、壮大なことに発散した挙句に、案の定、長くなってきたので、今回はここまでとしたい。次回は、資本主義における交換と贈与の問題をアートイベントに参加した経験から語ってみようと思う。ポスト資本主義そのものについて、というよりは、ポスト資本主義をどうみるかという「ポスト資本主義観」といった方が、語りの内容をうまく表しているかもしれない、ということだけ付け加え、今回の結びとしたい。


[*4] 自然からの収奪の問題を、経済哲学(主に『資本論』)で論じたのはマルクスであるし、これは新古典派以降の経済学でもたびたび経済外部性の問題として分析されている。

[*5] 例えば、マルクス以降の経済学では、コモンズ(共有地)の悲劇の問題を取り上げる。コモンズの悲劇とは、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという経済学における法則。共有地の悲劇ともいう(Wikipediaより)。共有地の悲劇は、生物学者のハーディンが取り上げたものである。
なお、ここまでの議論は、私有財産を前提としており、共有財産を考慮の外に置いている。なぜなら、私有財産の方が説明がわかりやすくなるからである。これはまさに、ぼくたちの認知の方法が個人や私有を前提としている証左でもあるし、共有地の悲劇にみられるような自然環境と経済の区分なき連関を感じにくくなっているという証左でも有る。このことこそがまさに悲劇といえるのかもしれない。

photo: tomohiro sato(M^)