哲学には、共通の方法が無い、と言われるのは常であるが、このことは、哲学的思考には共通の形式が無い、と言っているに等しい。

「なんとかシンキング」という本がよく出ている。わたしの周りにはそういうなんとかシンキング本を読んでいる人がいないのだが、そういう本は割と売れているようにも思う。

ところで、そういう本を欲する人とは誰なのか。それは私ではないし、私の友人でもない。なんとかシンキングを欲する人と欲していない人、なぜこれらの二つのタイプの人間がいるのだろうか。

なんとかシンキングを欲していない人とは、シンキング、つまり「思考すること thinking」のための手がかりとなる知識、厳密に言えば、思考するための「出来合いの形式」を必要としていないからであろう。お腹が減っていないときに、食料を必要としないのと同じように、出来合いの思考の形式を欲していないのである。逆に、なんとかシンキングを欲する人とは誰か。それは出来合いの思考の形式を欲している人である。もっと言うと、その人はその思考の形式に従って、自分の思考内容を整理することを欲している。思考の形式とは方法である。方法は思考に形式的秩序をもたらす。そしてその秩序に従って思考の内容を制御する。

哲学に、共通の方法が無いことの一つの理由は、哲学者一人一人が、自分の方法、自分の思考の形式において、思考してきたからである。なんとか学派というのは、大抵のところ、特定の先駆者の思考の方法を踏襲する人たちである。ところで、思考するのは哲学者に限らない。だから、こう言ってよければ、国家の思考というのがあるのかもしれない。要するに、国政に関わる人に特有の思考の形式というものがあるかもしれない。そしてその形式を獲得すれば、国家的シンキングができるのである。そのときわたしたちは、自分なりに思考するのではなく、国家の代わりに思考する。そう、わたしたちは「思考の公務員」になる。ナチスの思考の形式に従って思考した者、しかし同時にアーレントから見れば無思考な者、それがアイヒマンであった。アイヒマンも「思考の公務員」である。

哲学に、共通の方法が無いことのより重要な理由を、もう一つ挙げることができる。それは哲学者たちがその実、同じ問題を扱っていないからである。方法は、問題を解決するために要請されるものである。同じ問題を扱っていないのであれば、その解決のための方法が異なるのは当然である。それでも、ひとは「古典的な哲学者はみな真理探究をやっているじゃないか、真理の発見という同じ問題を扱っているじゃないか」と言ってくるかもしれない。あるいはまた「プラトンは真理を欲し、デカルトは真理を欲し、カントは真理を欲している、なのにどうして、彼らは異なる方法を用いているのか」という疑問が湧くかもしれない。

具体的に考える必要がある。何もすべてのひとが、真理を欲しているわけではない。会計士になることを欲する、エンジニアになることを欲する、絵を描くことを欲する。すべてのひとが会計士になること、エンジニアになること、絵を描くことを欲するわけではない。同様に、すべてのひとが真理を欲するわけではない。哲学者たちは、みな口を揃えて「私は真理を欲しています」と言っているかもしれない。けれど、彼らが真理を欲するようになるドラマは一様ではない。我々一人一人が同じ動機から、同じ何かになることを欲したわけはないように、である。だから、彼らがみな、真理を欲しているとしても、それでも彼ら一人一人をそう欲望させた問題状況は異なるのである。

例を挙げよう。古代ギリシャと17世紀フランス、プラトンとデカルト。両者が口を揃えて「私は真理を欲しています」と言っているとしよう。前者の方法は「弁証法」、後者のそれは「懐疑」ないしは「方法的懐疑」と呼ばれている。さて、どうして両者とも、真理を求めているのに、方法は異なるのか。

古代ギリシャ、アテネ、オリンピックの始まりの都市。どうしてそこでプラトンは真理を欲したのか。古代のアテネ、地理的には東西に栄える諸帝国のあいだに位置し、商業都市になった場所である。そしてオリンピックはその場所の雰囲気を伝える一つのよい象徴である。それはそこで生きる人々の多くがオリンピックを開催することを欲するほどの「競争意識」を持っていたことを暗示している。さて、諸帝国の間に位置する場所が一つの都市に発展していき、政治が必要になった。誰が政治家にふさわしいのか?

近代以降の諸国家が採用している民主制度がまだそこにあったわけではない。だから、医者が言うかもしれない。「私は人々の病を治す仕事をしていて、みなさんの健康な身体の維持に貢献しています。私こそ政治家にふさわしいのでは」と。農家は言うかもしれない。「私だってみなさんが健康な身体を維持できるような食べものを作っていますし、お医者さん、あなたも食べ物がないと生きていけないでしょ?だから私こそが」と。さて、このようにして、色んな人が、自分が政治家にふさわしいと言ってきた。誰が真にふさわしいのか?「自分にこそ、その資格があるんだ!」と言ってくる「請求者たち」を選別しなければならない。選別基準が必要である、政治家たる政治家、純粋な政治家、政治家の理想象を指すもの、プラトンは「イデア」という概念をつくった。「真実在」と訳される純粋な何か。政治家のイデアがあり、善のイデアがあり、美のイデアがあり、それぞれがそれぞれで真理である。彼の書物には主題となっている事柄の「イデア」を見出すための身振りがよく現れている。イデアを持っていそうな二つの具体的なものや具体例を挙げて、よりふさわしい方を選択し、さらにそれを二つに切り分け、またふさわしい方を選択する、これを繰り返し、よりふさわしいどころか、それそのものに向かっていく。これが「弁証法」と呼ばれているプラトンの方法である。

さて、プラトンは真理を欲した。そのために弁証法を使用した。なぜか。「請求者たちがたくさんいて、最もふさわしい請求者を選ぶ必要があり、かつ他の請求者たちの言い分に騙されたくないから」である。なるほど確かに、プラトンの敵は、レトリック(=説得術)を駆使してくる「ソフィスト(=詭弁家)」たちだった。また余談だが、医者と農家に「健康な身体」を巡って争わせたのは意図的である。というのも、古代ギリシャの美術、とりわけ彫刻作品に現れているように、その社会における「美」の一例は疑いなく「健康でたくましい身体」があったと思われるからだ。そしてまたプラトン自身が名を馳せたレスリング家でもあった。これらの歴史的事実は彼の思想と無関係ではないだろう。

さてそれでは、デカルトの場合はどうか。彼も真理を欲している。彼が絶対確実な真理を得るために「方法的懐疑」を用いて、「コギトエルゴスム(私は考えるゆえに私はある)」と言うに至ったことはよく知られている。では、どうしてデカルトはこんなことをしたのか?そしてなぜプラトンとは違うのか?このことはあまり知られていない。

話はこうなる。デカルトは、プラトンと同じ問題状況にはいない。プラトンと同じなのは「騙されたくない」という一点である。では、デカルトは誰に騙されたくないのか?デカルトは「私」や「神」に騙されたくないのである。デカルトがいたのは、宗教戦争の名残がいまだ残る、そしてまた天動説から地動説への知の転換も進行する17世紀ヨーロッパである。「もしかすると私は夢を見ているかもしれない」、「もしかすると神は欺瞞者であるかもしれない」。デカルトにとってプラトンの問題は二次的なものである。というのも、そもそもなんらかの請求者に騙されるには、彼の言い分に説得され、彼の意見に私は騙されていない、と信じてこんでしまうような「私」がいなければならない。ひとに騙されるには私が自らを騙すことができなければならない。だから真に疑うべきは、この「私」であり、いやさらには「私」に「私」を騙させている「神」がいるのかもしれない、とさえデカルトは疑う。徹底的な懐疑である。しかしその先でデカルトは、私が自らを騙しているとしても、神によって自らを騙すよう仕向けられているとしても、そして、いまこの状況すら夢だとしても、いまここでこのように考えているところの「私」は存在していなければならない。「私は考えるゆえに私はある」。

プラトンとデカルト、真理を欲する二人の哲学者。それでも両者の方法が異なるのは、彼らが置かれている問題状況が異なるからであり、また結局のところ、彼らが掴んだ真理は、その問題状況に依存する仕方で各々、その意味が異なっている。つまり、彼らは別の真理を欲している。一方は「(ひとに)騙されたくない」タイプの人間にとっての真理であり、他方は「(私に)騙されたくない」タイプの人間にとっての真理である。

問題が違えば、方法も異なり、そしてまた答えも異なってしまうのは当然であろう。「2」が正解であるのは、問題が「1+1は?」などの場合である。「三角形の内角の和が180度」なのは誰もが知っているだろう。しかしこれは一つの平面上、ユークリッド幾何学においてである。球面状の三角形は必ず180度よりも大きくなる、非ユークリッド幾何学においてはそうである。だから重要なのは、解決すべき問題の状況をまずもって確認することであり、そしてそれに適した方法があれば採用する、あるいは自らで作り出すことである。

最初に戻ろう。「なんとかシンキング」、それはわたしたちが直面している問題状況に本当に適切な「方法」であるのだろうか。自らが置かれている問題状況をより精密に理解する努力もなしに、「なんとかシンキング」を飛びついて、それに従ったところで、真の解決はもたらされるのだろうか?そして逆に、わたしたちは「プラトン、そんな古い異国の人なんて役に立つわけないじゃないか」と簡単に払いのけることができるだろうか?もしわたしやあなたが、例えば、選挙に関わる仕事をしているならば、なんとかシンキングより、プラトンの作品の中の議論の方が自分自身の問題状況を理解したり、それを解決するのに役立つかもしれない。そして当然に、その逆もありうる。

哲学史とは、我々一人一人の生ないし生き方が様々に直面する諸問題を扱うための思考の貯蔵庫である。誰かが特権的に「良い」のではない。彼ら一人一人の思考のイメージが異なっており、そして特定の思考のイメージと自分自身の状況が共鳴する場合、その哲学者が自分自身が思考するために役立つたくさんのことを教えてくれる。だから哲学とは、本来、ある哲学者はこの哲学者に乗り越えられた、とかそういう批判ができる話ではない。

いまや「哲学には、共通の方法が無い」のは驚くことではなく、当然のことである。我々自身の生の様式が多様なのだから。むしろ一つの方法がすべての状況をなんとかしてくれると思っている方が恐ろしい。思考のフォルマリズムをとるのは構わないが、それはすでに思考のファシズムに足を踏み入れているかもしれない。なんにせよ、哲学者たちの助けを借りるとしても、あるいはなんとかシンキングに頼るとしても、自らの問題状況に最終的な解決を与えるのは、常に自分自身によって、である。だから、もし哲学者たちみな口を揃えて言っていることがあるとしたら、それは「おのれの思考を他の誰かに委ねてはいけない」という一点のみであろう。