小説バトン 第五走者
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ここ2、3年で仕事はほとんど在宅となり、通勤していた平日午前に散歩することが多くなった。ゆっくりと見回しながら耳をすまして歩き、立ち止まってみると、知ったように思っている街にも発見がある。
町内にあった古い大きな一軒家。前を通るとテレビの大きな音がよく聞こえてきた。きっと住んでいる人は耳が遠いのだろうと思っていた。ある日、工事の音が聞こえ通ってみると、取り壊している。新しい家が建つようだ。そういえばここ数日近くを通ってもテレビの音が聞こえてこなかった。きっと住人は引っ越したのだろう。
中華料理屋は知らぬ間に閉店していた。せっかくこの街に住んでいるのだからと一度だけ行ったことがある。おそろしく薄味で、驚きのあまり、1階に住んでいる大家に尋ねると、年配の人たちがいるこの街では意外なニーズがあるらしい。そう言われれば確かに店員がバイクに乗って配達に向かっているであろう姿を何度か見かけたことがあった。一体誰が食べるのだろうと僕が思う味も、他の人にとっては食べたいと思うということもあるのだろう。
古くからあるが立ち寄ったことのない魚屋。働いている店主らしき老人。ただ黙々と魚をさばいている。もう一人の店員は発泡スチロールに細かく砕いた氷を丁寧に敷き詰める。その口は真一文字。正直なところ入りづらかった。勇気を振りしぼって、真剣な様子の店員に
「今日の魚は何がいいですか?」
と声をかけてみると、想像だにしなかった笑顔。氷を詰める手を止めて店員は話し始めた。
「イサキがいいね。あとは今日は鯛かなぁ。3枚におろしてあげるよ。」
「あ、自分でおろせます。練習したいんで。」
「それなら鯛なんかはね、面倒でなければ鱗を揚げて食べてもいいんだよね。」
もう一人の店主らしき方も寄ってくる。
「いいんだよ、そんなのは。お兄さんが自分でさばけるってんだから。お兄さんが好きなように食べたらいいんだよ。んー、今日はイサキか鯛だな。イサキは刺身でもいいけどちょっと大きいから骨もあるし塩焼き、酒蒸しでもいいよ。こっちのアジも地の物だけど小さいから煮付けてもいいな。」
「南蛮漬けも美味しいよ。鯛はカルパッチョなんかでもいいね。」
「塩焼きにしてもいいな。すこし塩振ってから時間をおいて焼くんだ。正月は塩釜焼きなんかで食べたりする。」
口は悪いが二人掛け合いながら延々と教えてくれる。店は先代から続いているようで、魚や海のことだけでなく、街のことにも詳しい。昔は廃水で汚れていた街を流れる川も最近ではだいぶ綺麗になって、魚がすこし戻ってきたということだった。僕は遠目にカラスだと思っていた、電線に止まっている鳥も、実はその魚を狙う川鵜だと教えてくれた。川には鯉もいるようで、そこから中国の鯉料理の話にまでおよんだ。びっくりするほど話は長かったが、時々遠くに目をやり微笑むその顔に心がほころぶ。それ以来近くを通るとその魚屋に寄ることにしている。
・
朝の8時半、今日も僕は散歩に出かけた。魚屋で話が長くならなければ30分から1時間程度。そこから仕事に入ろう。
いつもの魚屋に挨拶をした。今日は魚も少なかったので、さっと魚を見て店を出た。そこからすこし坂を登ると、「氏神様」と呼ばれる神社がある。本当にそこが氏神様なのかどうか僕は知らない。この神社には身体が向かいたいタイミングで立ち寄る。
「お邪魔します」
とお辞儀をし、二つの鳥居をくぐると、数十段の石段、二体の狛犬、本殿、裏にはスギ林がそびえ立つ。深呼吸をしてから一段一段上る。本殿に挨拶をしたあと、その先にある切り株を見つけ腰をかけた。先日の台風でやられたのであろう。俯いて目を瞑り呼吸に意識をおく。すこしだけ息が上がっている。鼓動は早い。
呼吸が落ち着いてくると、風や山の音、匂いを感じる。この神社にくると目に見えないものも感じられるようになる。
切り株の根のそばから蟻が土の上を歩いている。蟻が向かうであろう先にいくつか小石がある。背の低い雑草も生えている。雑草は点々としながら神社の薄暗い濡れ縁の下に繋がっている。神社の裏にある岩には濃い緑色の苔。それを眺める切り株に座った僕。
蟻はどこに行ったのだろう。
いたいた。
いくつかの小石の先まで進んでいる。
「速いな。」
なぜ速く感じたのだろう。僕が歩けば1、2歩の距離だ。蟻の短い手足が細々(こまごま)と動いているよう僕には見え、その身体の大きさから「蟻が足速に歩いている」と僕は感じ速いと思ったのか。蟻にしたって蟻自身が速いと感じているかどうかなど僕にはわからない。僕の世界から見て、僕が感じただけだ。蟻はただ何かに従って手足を動かしているだけかもしれない。蟻には蟻の世界とそのルールがあるのだろう。
蟻がそばを歩いたであろう小石。石はじっとして、自分では動かない。振り向くこともない。蟻に動かされるだろうか。小石も蟻からすれば大きな岩のような大きさだ。蟻が動かすのは無理かもしれない。風が吹いてその力が強ければ石も動かされることもありそうだ。雨が降り、水の流れる力が強ければ流されるだろう。石は流され神社から他の世界に移動していく。
石の世界、風の世界、水の世界。蟻の世界、僕の世界。神社という世界。きっとそれぞれの世界はその時々で重なり合っていて、何かしら関係の中で存在しているのだろう。互いに動き動かされることもある。僕もいろいろなものと重なっていて、ここに長くあるものたちからすれば、僕はたまにくるストレンジャーといった関係かもしれない。それらは僕の足を止め、じっくりと思考させてくれる。
ひとしきり巡った頭をあげ、ゆっくり立ち上がり、世界にお辞儀をした。
「ありがとうございました。」
頭を上げると、視界が広くなったような気がする。周囲にある様々な世界が目に入ってきた。石段と世界の重なりを身体で感じながら一段一段降りる。石段には葉っぱが落ちていて、葉っぱに悪いような気がして避けて降りた。鳥居をくぐると振り返り、もう一度頭を下げ、坂道をくだる。魚屋を通りその先の交差点に出ると道が開けた。電線には川鵜が止まっている。
僕は何に動かされたのだろうか、急ぐ必要もないのに走って帰った。
第六走者へ続く