フィールドリサーチにて

このシリーズでは、2020年3月出雲でクライアントと共に行ったフィールドリサーチ(フィールドワーク)のことを書いている。第1回は調査前日のこと、第2回(前回)は、調査1日目で起きたことから、観察と観光を比較して、「観察と観光」の間、<まじめ>と<ふまじめ>の間で、僕たちは活動している、といったことを書いた。

さて、今回は、調査2日目の出来事を中心に書いていく。出来事の中、すなわち「観察と観光の間」において、語り、記述することとはどういうことなのだろうか。それが今回のテーマである。

出雲2日目の位置付け

2日目は、クライアントのHさんに案内、同行いただきながら、「観察/観光する」ことにあった。それはHさんたちが提供するサービスそのものを対象とするものでもあるし、そのサービスや土地についてHさんたちがどう見せ、どう語ってくれるのか、それを観るためであった。

まずは、前回と同様に、観光の記憶や記録をここに記しておく。

Hさんのお話を伺いながら、出雲大社周辺のお社をめぐる。大社の周辺はとにかくお社が多く、当然に祀られている神である木々も大きくて凛々しいものであった。

少し離れてポツンとある「ご縁ポスト」。縁結びというのはとても引力があって、僕らも漏れなく引かれてしまった。そういえば、妖怪ポストなんてものもあったな、と思い出して、妖怪と神様の違いについても考えてみたいな、と話していた。

出雲大社から神迎えの道を降りていくと、稲佐の浜に出る。

浜の砂を大社に納めるとさらにご縁があるそうな。砂にも神が宿っているのだろうか。

海風を感じながら、日本海の海景を横目に車で北へ向かう。

半島の西岸に、天照大神を祭るお社がある。出雲では珍しい天照。日の恵みよりも海やそのほかの恵みが多くあるのだろう。

この赤は、夕日の明るさや美しさ、力強さのようなものを彷彿とさせる。出雲では異質な色である。歴史や寓話を思えば、日と雲は相対するものである。

西岸には、天照と共に灯台がある。海の幸をあげる漁船、神を迎えるための灯火。

迎えられた海の幸をいただく。神と噛む。

売店の前で回る干物。臭いは強烈で、漁港へと誘われるには十分余りある。

漁港は、赤茶色の瓦屋根に囲まれていた。出雲地方の色はこの色である。日のあたり方によって、色と艶が変化する。鳥取方面へ行くと、段々と黒くなり、赤茶は姿を消す。昔からの土質や焼き方によるものなのだろう。風土を感じる。

 

道中の語りから

道中は、とにかく楽しかった。

案内してくださったHさんは、この土地で数年間にわたり仕事をしているので、やはり土地のことに詳しい。ただそれ以上に、とにかく楽しく語ってくれるので、僕たちの好奇心がそそられる。そして、僕たちもそれに呼応して問いかける。中でも、特に印象に残る場面は、島根半島の北岸に至るまでの道中とその語りである。


「黄泉の入り口に行きましょう」

2日目の調査、案内同行してくださっているHさんが、突如、不穏な言葉を発した。

出雲といえば出雲大社周りの神社群でしょう、と言わんばかりのルートを巡り終わった時だった。僕たちは安寧と、観光客として出雲感を味わってしまっていた。少し退屈していたのかもしれない。Hさんの言葉を聞いて、不穏だと思う反面、気がつけば、是非とも行きたいと反射的に答えていた。


黄泉の入り口に辿り着くまでには少し時間を要した。観光名所となっている灯台や、漁村の面影の残る漁港、それらを巡った後、山道を通って、彼の場所に向かう。車に乗って、30分も経たない時間であったが、とても長く感じた。途中、山中で携帯電話の電波が途絶えたせいもあったかもしれない。行きはよい良い、などというが、そんなことはない、行きもちょっと怖いじゃないか。ただでさえ、霊的なイメージのある出雲。その土地で「黄泉の入り口」と言われれば、鳥肌ものである。そっちの感覚が鋭いメンバーはいなかったけれど、それは不幸か幸いか。

山道を抜けると、海岸線を走った。海岸線は広い道ではなく、対向車が来たら困るほどではないものの、少し気を張るような道。しかも、この時はひどく大時化(しけ)で、10メートルほどの落差が船を襲うなどといった話を小料理屋で聞いていたから、波浪に道が飲まれてしまうのではと変な想像をしてしまい、畏怖の念を抱いたのだった。何度かここを訪れているHさんも「こんな波、今まで見たことないですよ」と、真剣に、そして、少しワクワクしながら、声の調子を上げていた。いやいや、普通に怖いですよ、とは言ったものの、内心は、いいタイミングで来てやったぜ、これこそがご縁である、などと思っていたわけで、それはHさんの「今まで見たことない」という語りに揺さぶられていたということでもある。

そうこうして、海岸線を走り始めてから数分後、僕たちは「黄泉の入り口」に立っていた。

洞窟を出ると、浜の方から、低い雷のような轟音が聞こえてくる。波が打ち寄せるたび、ゴゴゴゴゴゴゴゴと鈍い音がする。なんだろうと、道路の上から浜の方に目を向けると、激しい波が押し寄せている。この道から降りたら、間違いなく波に飲まれ、黄泉の入り口どころか、黄泉の国へ一直線だろう。「この波はやばいですね、これ、いくやつですね」などと話しながら覗き見ていると、大人の拳くらいの大きさだろうか、丸い物体の群れがゴロゴロゴロゴロと蠢いていた。よく見ると、その正体は、波によって動かされている石たちであり、それらがとてつもない勢いでぶつかり合って、轟音を発していたのであった。

正体不明の轟音、低い曇り空、白い飛沫が暴れ回る海景、対岸に見える風力発電の巨大風車。そして、大荒れの天候とは対照的に、嫌なほど静かな洞窟。

書いているだけでも、もはやこの世のものとは思えない光景が思い出される。「黄泉の入り口」などと聞くと、暗く沈むような死を思い描いてしまう。ただ、あの時は本当に不思議で、確かに霊的な冷ややかさはあったけれど、地球ではないどこか別の星に漂着した四人が、生きるために何らかの探査をしているような、Sci-Fiめいた感じがした。

その中で、Hさんは、「いつもはこうである」とか「ここにはこんな由来やいわれがある」とか「いやぁ、今日は本当にすごい」とか、嬉々として様々なことを語ってくれたのであった。その語りを受け、僕たちは語りを記録し、そして報告書という形で記述した。文章によって、グラフによって、イラストによって、写真によって、記述したのだ。

2つの語り、能と浪曲から

さて、少し肌寒くなってきた方もおられるかもしれないので、ここで少し話を「語り」という行為に向けてみたい。

語り語りというけれど、語りとはそもそも何なのだろう。ここでは、いろいろな形のある語りの中から、最近聞いた「能」と「浪曲」の話を紹介したい。

まず、能。能楽師の安田登は、とあるイベントでこのようなことを語っていた。「能はシテ方とワキ方があって、自分はワキ方を演じている。ワキ方の役目は”何もしないこと”。舞台の上で、何もしない。というと大袈裟で、一つだけやることをあげるとすれば、シテ方に正しい問いを投げかけること。」と言っていた。シテ方は語る、ワキ方の問いに応じて。そして、どうやら、能は観客に向かって演じたり語ったりするのではないらしい。いわゆる”あの世”(舞台)に向かって、語るのであるらしい。なんとも興味深い。ワキ方は何もしないし、シテ方は舞台上の”あの世”、虚空に向かって語るのだ。観客はいないものとして。

もう一つ例を挙げてみよう。同じイベントで、安田登と鼎談していた玉川奈々福は浪曲について、次のようなことを語っていた。「師匠から言われたこと、それは、浪曲の師匠が弟子に継承していく目的は、まず語りを絶やさないことにあるということ。何百何千という語り(曲、演目)を絶やさないこと。」と。浪曲や伝統芸能の演目は、誤解を恐れずに言ってしまえば、「昔話」群である。それら昔話を「観客に語る形を使って」絶やさないこと。それを主目的として、人生を賭して浪曲をやる。それが浪曲師である。僕はそう理解した。

さて、能と浪曲の話は、それだけでとにかくおもしろい。語りには様々な形があり、語りの芸事といっても千差万別だ。ただそれらは人が長年やってきたことであって、共通点があるのかもしれない。能と浪曲から、語りとしての共通点を考えてみる。

まず、語りでは、語り手と聞き手が必要である。能では、確かにあの世に向かって語るので、厳密にはこの世の存在に対しては語っていないことになっている。だけれども、わざわざワキ方を置くということは、やはり、人は聞き手がいることによって語れるように(もしくは、語りやすく)なるということではないだろうか。他方の浪曲では、師匠から弟子に語りもするし、浪曲師から観客に向けて語るエンタメであるとも言われるから、当然に聞き手がいることが前提となっている。

そして、語りとは、実は、聞き手のために行われるものではない。能は、あの世に向かって語る。それは、あの世とこの世の間にある残念(怨念といってもいい)を晴らす(果たす)ために語るのである。浪曲は前述の通り、語り=曲=昔話群を絶やさないために語る。変な表現かもしれないが、語りを生かすために語るのである。

語りには、聞き手が必要である。だが、聞き手のために語るものではない。

<既知>の<未知>と出会う出雲の語り

出雲では、観察と観光の間を行き来した。そこでは、Hさんをはじめ、様々な人たちが僕たちに語ってくれた。僕たちはそれを記述、議論、整理した上で、報告書としてHさんに提出した。それがこの出雲フィールドリサーチで行ったことである。

Hさんや小料理屋の店主たちが僕たちに語ったことは、僕たちに伝えたいためでもあっただろう。しかし、先の能と浪曲の話に照らすと、実は、彼らの語りは、僕たちのために語られたわけではない、ということになる。僕たちはそれを気にも止めずに、淡々と記述した。

後に、クライアントのHさんからは、報告書には(それなりに)示唆があったと伺った。それだけでとにかく嬉しいことである。ただ、このことを改めて考えてみると、報告書の内容は、Hさんご本人から得られた内容、Hさんが既に知っていた内容が多分に含まれていたのだ。Hさんは、Hさんが「既に知っていたこと」を記述してある報告書を見た時、色々な気づきがあったということなのだ。これはとても不思議なことだ。

語り手が知っていたからこそ、他者に語ったはずなのに、語り手が知らなかったことに気がつく。

語り手は、語ることで<既知>の<未知>に出会うのだ。

僕たちは既に知っている。<既知>という名の<未知>を。

続いていく語りと記述、

僕は今、記述している。出雲であった語りを思い出しながら、記述している。

この文章を起こすために行ったトークセッションでは、(特に個別に連絡したわけでもないのに)Hさんも飛び入り参加してもらい、存分に語っていただいた(第1回冒頭参照)。出雲での語り、トークセッションでの語り。そして、それらの語りを記述した結果が、この文章である。もしかしたら、この記述を読んでくれた幾人かの方は、この記述について語ってくれるのであろう。「あの文章、写真、良い/いまいちよね」、「ここが好き/嫌い」、「いやいや意味わかんないから」などと、語り、記述し、語り、記述し、延々と続いていく。

そう考えると、僕たちがやってきたことは、先に述べた「<既知>の<未知>を知る」ということだけではないような気がしてくる。延々と継がれていく語り、そうやって僕たちは生きている。<既知>の中でもがきながら、僕たちは僕たちの<既知>の<未知>と延々と出会い続けていく。

僕たちは既に生きるということを知っているのだ。多分。

3回の終わりに。僕たちの生に向けて、

これまで3回にわたり、出雲でのフィールドリサーチで起きたことについて書いてきた。

今思い返してみても、このフィールドリサーチの3日間は、不思議な時間、不思議な空間であった。その不思議さを可能な限り表現したいと思い、4月のトークセッションに助けられながら、筆を走らせてきた。だが、これが表現としてうまくいったのかはわからない。いくら書いても書ききれないし、思い出そうとしても、それは現実に起こったことなのか幻だったのか記憶違いなのか、そのような気がしてしまう。

しかし、この記述は、間違いなく、著者自身にとって、一つの<語り>であった。記述し、推敲を重ねることで、<既知>の<未知>に、<未知>という名の<既知>に出会っていく、いや、再会していく道程であった。

第1回で書いた<場に入る>ことも、第2回で書いた<観察>と<観光>の間も、今回書いた<語り>と<記述>も、まだまだ中途半端にしか言語化できていないように思う。これはとても大変なテーマであるし、今まで以上に、考えがまとめていけるかもわからない。

そうだとしても、僕たちは書き続ける。移動をして、ご飯を食べて、会話をし、写真を撮って、語り、語られ、それを記述する。その先に、知ることになるのかもしれない。いや、おそらく僕たちは<既に知っている>。ここで書いたこともこれから書いていくことも<既に知っている>。

だからこそ、僕たちは書き続けるのだ。

さて、長くなってしまった。

拙筆ながら、このシリーズはここで一旦の完結となる。もしかしたら、続編があるかもしれないし、形を変えて同じようなテーマを書くかもしれない。願わくば、今、これを読んでいる方がその続きを見守っていただけたら、とても嬉しく思う。ここまで読んでいただいたことに多大なる感謝をもって、(一旦)締め括ることとしたい。

photo: tomohiro sato(M^)