1年が経った。
1年経った。監査役としてメタに所属してから。
最初はどうなることかと思っていた、と言うと、嘘になる。
どうなるか、とかはあまり考えていない。
ただ、出来事がある。それが絶え間なくやってきて、時に身体が元気になったり、落ち込んだり、悩んだりして…。それらが少しのあいだ続いていたかもしれないし、いつの間にか変わっていたかもしれない。生きている。
1年というのは、割と好きな単位だ。
週末までとか、1週間とか、はなんとなく、好きじゃない。
絶え間なく出来事はやってきているけれど、出来事の場所であるこのぼくの身体は、そうはすぐに大きく変わらない。いや変わっているのかもしれないけど、それでもぼくの意識がその変化にようやく気づくのは、もっと大きな単位のもとで、だからだ。
それにどうやらこの星の周期は1年だ。本当は閏年があるから、ぼくらが依拠している1年というのは、この星の周期とは少し違うけれど、まぁ、でもそれは多めに見ることにしてもらって、1年。
この星は、自分がこの1年どうだったか、と振り返ることがあるのだろうか。たぶん、次の一周がもう始まっていて、そんなことはしないのかもしれない。
けれど、まぁ、振り返るとしたら、おそらく、人間という種の数が一気に少なくなって、同時に、人間という種による汚染がなくなって、空気が綺麗になって、動植物たちの移動範囲が広がって、体内環境?表面環境?ともかく、自分の肌が綺麗なった、とか思うのだろうか。「今年1年で肌めっちゃよくなったわー。この1年、結構コロナウイルスとか人間に呼ばれている分子を結構活動させたおかげかなー」とか思っているのだろうか。しかしまぁ、この「綺麗/汚い」という観念も人間の頭の中にある区別だから、やっぱりこの星はそんなこと思っていないかもしれない。
まぁ、とにかく、この星の一部として、本当に星の生からしたら、ちっぽけで短い、ぼくの人生の1年が星の1周とともに過ぎたわけだ。
元々は2ヶ月に1回ほど、東京に行って、メタのメンバーと会う、という予定だったんだけど、この星が肌を綺麗にしていたこともあって、ぼくは予定していたほどは、東京に行くことがなかった。
それでも、この1年はいろいろなことがあった。本当にいろいろあったのだけど、自分が「やったこと」に限って、振り返ってみると、それでよく印象に残っているのは、会社のコピー(理念)作りに参加したことと、人類学の読書会をおこなったことだ。
これらはなんというか、自分の能力が発揮されると同時に、哲学が会社の役に立つ、ということの可能性を実感したことによるのだ、と思う。
最初に、代表の辻さんと取締役の佐藤さんとお話したとき、「哲学に何ができるか、を知りたい」と言ったことは今でも、というか、いつでも思い出せる。
「哲学にできることがある」ということを実感できたことが、コピー作りへの参加と読書会だった。
そんなふうに振り返って、次の1年はもう少しそういった機会、哲学にはこんなこともできるんだ、と実感し、気付けるような機会を増やしていきたいなぁ、と今は思っている。
再び新たな周回が始まる。
たくさんの人とたくさんの動植物たちと一緒に回る、みんなで地球と一緒に回る周回が始まる。
いつの間にか参加させられている、ぼくらのマラソン。起源も終わりもなく、順位づけもなく、急いでも変わらないし、動かなくても変わらない、みんなで1周を終えて、みんなでまた1周を始めるぼくらのマラソン。
違うのは、どんな風に1周するか、どんな風に走るか、その走り方だけで、それはみんな違う。次の1周、どういう風に走るの?
次の1年は、もう少し速く、もう少しカッコよく走ってみたいとぼくは思っている。
不思議なものだ。相対的には速く動いても、遅く動いても、みんな一緒で、1周は変わらないのに、速く、とか、遅く、というのがやっぱりある。
甲子園球児が、1分1秒惜しんで、夏の甲子園にむけて、1日を過ごす速さと、だらだらと生活して、思い立った娯楽を楽しんだだけの1日を過ごした人の速さとの間にはやっぱり何か違うものがある、とぼくらは知っている。「今日はあっという間にあんな時間だね」とぼくらが言うときのそれだ。
相対的には時間が変わらなくても、ぼくらには何か一人一人絶対的な自分の時間のなかで速かったり、遅かったりすることがある。時間の不思議。
いずれにしても、ぼくはもう少し速く、次の1年は、もう少し速く、走れるようになってみたいと思う。結局、星の一周のゴールとは一緒だけれど、それでも、ぼくにしかわからないぼくのゴールに、その方が何か近づけるような気がするから。
おわり
・
Johannes Vermeer, ”The Astronomer”, circa 1668, oil on canvas, 19.6 in×17.7 in
・
・