哲学者の監査役就任について - ある匿名批判者からLogue編集部に寄せられた書簡

"真の統一とは調和の統一であり、それによって、どのように対立しているように見えようとも、すべての部分が社会全体の善に寄与するのである。それは、音楽において不協和音が全体の和音に寄与するのと同様である。"
-モンテスキュー(1734)-『ローマ盛衰原因論』-
2025年4月1日から繁田氏が株式会社メタの監査役に就任いたします。彼は哲学の研究者であり、本職は理系私立大学の教員だと聞いております。私が個人的に調べたところ、彼は他の研究者と比べても非常に華やかな業績をお持ちのようです。もはや進歩など見込めないと思われる哲学研究の領域で、異例なほどの業績を残していることには驚かされます。彼にも彼なりの生存戦略があったのでしょうから、業績についてあれこれ言うのは控えます。しかし、私は彼が監査役に就任したことについて危機感を抱いており、この書簡で、彼が就任することについて二つの批判的な意見をお示ししておきたいと思います。
最初に、この手紙をお読みになるLogue編集部様には、なぜ私がこの手紙を匿名としたかをご説明いたします。それは匿名とすることで、旧知の間柄にあるメタのみなさんや繁田氏と、良好な関係性を保つことが私にとって重要だったからです。これは単なる保身ではありません。むしろ私の人間愛と、誠実な批判精神に翼を与えるために、必要な措置だったのです。ですので、編集部のみなさま、どうかこの手紙がメタのみなさんや繁田氏が閲覧できるように、Logueに掲載していただくようお願いいたします。
以下の本文には批判が続きますので、冒頭で強調しておきますが、私の意図は繁田氏を個人的に中傷することではございません。この手紙は、哲学と社会あるいは企業の関係性について、立ち止まって考えるために、批判的な意見を述べているのです。この手紙の末尾では彼が監査役に就任することの、肯定的な側面も論じております。ですから繁田氏がこの手紙を読まれた時には、いささかも気を落とす必要はございません。
第一に、私の考えでは「哲学教員」という肩書ほど矛盾したものはないと思われます。というのも、真の哲学者が誰かに何かを教えることはありえないからです。このことを言葉の歴史から説明いたします。
ギリシャ語のφιλοσοφία(philosophia)を「哲学」と訳したのは西 周(1829-1897)です。しかし、西も当初は「希哲」という語を使うことがありました。洗練された読者であるあなた方はお気づきでしょうが、φιλοσοφίαという語は、φιλο (philo)とσοφία (sophia)という二つの要素からなる合成語です。前者はphilanthropy(人類博愛・慈善活動)にも見られる「愛求」の意味を持ち、後者は「智」の意味を持ち、四谷駅にある上智大学Sophia Universityにもつながります。つまり、「智を愛し求めること」がφιλοσοφίαの原義であり、「学」logosという要素は含まれていないのです。
したがって、真の哲学者は「より智を得たい」と希求するものであり、教えるものではありえないのです。この点で、「哲学の教員」という肩書は矛盾しているのです。もし繁田氏が真の哲学者(philosopher)としてではなく、知恵者/詭弁家(sophist)としてメタにかかわるのならば、それは由々しき事態と言えましょう。彼がペテン師であるかどうか、またそのような傾向性を持っていないかについて、あなた方は注意深く見守っていく必要があるのです。
第二に、哲学者が社会の中心にいてはならないということは、人類史が繰り返し証明してきた事実であるという点に、あなたの注意を促したいと思います。例えば古代ギリシャでも、哲学の始祖とされるソクラテスは、彼の問答法が良家の子息たちに影響を与え、国家転覆の疑いをかけられ、最終的には処刑されました(正確には毒杯を自らあおるよう促されました)。なぜソクラテスはアテナイの政治体制において、単なるおしゃべり好きな老人では済まされず、国家の脅威として排除されたのでしょうか。それは、彼の問答法が若者たちに既存の価値観や伝統を疑うよう仕向けたためです。簡単に言えば、彼は現在で言うところのカルト指導者に近い影響力を持っていたともいえます。このように考えれば、政府当局がソクラテスを処刑するに至った理由も理解できるでしょう。ここから、「哲学は薬であると同時に毒でもある」という、いわゆるΦαρμακον (pharmakon)という哲学理解が発生し、今日まで広く受け入れられてきました。
さて、私は企業内哲学者というものに対して懐疑的です。というのも、企業内哲学者を名乗る活動家たちは、「哲学は社会(人)にとって毒になりうる」という危険性を十分に理解していないように思われるからです。私が実際に目にしたところでは、ある企業内哲学者は、彼が行った哲学的な対話の結果、ある社員が退職に至ったという事例を、まるで誇るべき成果かのように公衆に報告していました。仕事を辞めることは時として必要かもしれません。その人はすでに心を決めていて、誰かの後押しが必要だっただけかもしれません。しかし、私はこのような事例に、哲学者が一般人にかかわって、彼らの常識や安定した現在に猜疑心を抱かせるという、毒としての哲学の在り方を感じ取ったのです。
もし、企業内哲学者達が哲学の毒をはじめから企業に提示しないならば、彼らの行為は、副作用を明記せずに薬を処方する医師と同様の行為といえるのではないでしょうか。意図的に副作用を隠すのは、ヤブ医者か悪質な製薬会社くらいでしょう。いずれにせよ、副作用が発覚すれば、彼らには多額の賠償責任が課せられます。では、もし哲学者が社会に悪影響を及ぼすことがあった場合、彼らはどのような責任を取るのでしょうか。その責任を自覚しないならば、彼らは社会的責任を軽視していると言わざるを得ません。
第二の批判点を理解した今となっては、第一の批判点、すなわち哲学教員という矛盾は、彼らが大学に留まっている限りは許容範囲内だと言えるでしょう。しかし、もし彼らが自らの取り扱う哲学というものの危険性を自覚せず、社会に介入しようとしているならば、私はこの潮流に断固として反対いたします。繁田氏がメタにどのような影響を及ぼすのかはまだまだ未知数ですが、彼の就任によって何らかの変化が起こる可能性は否定できません。人事については株主総会の決定であり、異議を申し立てるつもりはございません。しかし、賢明なあなた方は、以上の二つの批判点を心得ておく必要があります。この点を伝えるために、私はいかなる誹りをも受ける覚悟で筆をとったのです。
最後に、この批判的な手紙を肯定的な言葉で締めくくりたいと思います。あるいはこれは祈りのようなものだと受けとっていただいても構いません。これまでの記述で私はもう十分に繁田氏の怨みを買ってしまったかもしれません。しかし、あなたはこのような無礼を許さなければなりません。というのも、私の警告には十分な価値があり、それを伝えるためには繁田氏や彼に親しい人々からの憎悪の念を受けることが避けられなかったからです。私とて、そのようなことは避けられるのであれば避けたかったのです。
さて、私の考えでは、メタが哲学者から良い影響を得られると考えられる理由の一つは、メタが「超えること」、「揺らぐこと」を一つの価値として認めているからです。多くの場合、社会は安定性にむかう暗黙的な意志をもっており、自分の内在的な価値基準に疑いの目をむけることをよしとしません。しかし、メタはこの点でおおきく異なっております。つまり、この会社の風土は自らの在り方をも疑い、問い直し、そして超えていくことを目指すものだからです。私はこの社風は優れて哲学的なものであると考えており、そこに繁田氏が追い風となることを期待します。
最後に、私の個人的な願いをお話しさせてください。どうか、賢明なる読者のみなさま、繁田氏が善き哲学者であり続けられるようにしてください。そのために必要なのは彼を盲目的に信じたり、崇めたりすることではありません。彼がもし真に哲学者的であろうとするならば、彼が話す言葉は常に疑われ、批判されなければならないのです。彼を良き友として受け入れるならば、私たちは彼の好敵手でありうるようにしなければならないのです。
私はこの手紙をもってひとつの不協和音を奏でました。しかし、真の調和とは、モンテスキューが正しく論じているように、異なる旋律が響き合うことで生まれるものです。どうかこの手紙が、より豊かな思索へとつながりますように。
私の最も格別な感情の表現をどうかお受け取りください。
あなたの匿名の批判者より
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